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森山未來 Re: Incarnation
文:小崎哲哉

2021.04.26
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All the photos by Kenryou GU
清水寺での上演は東日本大震災からちょうど10年後の3月11日の夜。閉門後とあって観光客の姿はない。観客は案内役のスタッフに先導され、暗い境内を歩き回って鑑賞した。

このあたりは、平安時代から続く鳥辺野(鳥部野 とりべの)と呼ばれる墓所である。蓮台野(れんだいの)、化野(あだしの)と並んで、風葬を主とした墓跡として知られている。平安京の貴人は荼毘に付されたが、庶民の遺骸はほとんどが野ざらしだった。

清水寺の千体石仏群

近隣には市営墓地のほかに広大な大谷本廟がある。浄土真宗の宗祖親鸞の廟所だが、門徒の墓もたくさんあって、彼岸ともなれば墓参客でごった返す。夜の墓所にはしかし、人影はない。生暖かい風がときおり木々の梢を揺らすばかりだ。

サイトスペシフィックなパフォーマンスは全部で9場面。内8場面には月読(つきよみ)、巨椋(おぐら)、桃山(ももやま)、日吉(ひよし)、清水(きよみず)、神山(こうやま)、気生根/貴船(きふね)、愛宕(あたご)と、京都府内の聖地と呼びうる場所の名が付けられている。最後は清水寺本堂前のいわゆる「清水の舞台」。森山は事前にすべての場所を観て回り、撮影やフィールドレコーディングを行ったという。

リーフレットに記載された森山のステートメントによれば、9という数は「九相図(くそうず)」から発想した。野ざらしの死体が朽ちてゆく様を描いた仏教絵画で、腐敗ガスによる体の膨張、腐乱による変色や溶解、蛆虫や鳥獣による損壊などがリアルに表現されていておぞましい。パフォーマンスは九相図をそのまま写したものではなかったが、葬送の地という場所の力もあって、ただならぬ何ごとかを感じさせるものだった。

●「九相図」に想を得た9つの場面

緩やかな山道の向こうに光が漏れる。ドローンのような響きも聞こえる。その響きに森山自身が書き、読み上げる語りが重なる。「星を占う 月の裏 引き裂かれた その狭間から 滲みとろける 源が 寄る辺もなく 土へと溶ける……」。
第1場は、東山から流れ出るせせらぎの畔だった。死に装束にも袈裟にも見える衣裳をまとった演者がひとり、月光のような照明を浴びつつ樹木の中を歩くように舞う。清水の地は苦行僧が水を求めて発見したと言われ、寺の名はこの伝説に由来する。開山の縁起に言及した心憎い導入部だ。言うまでもなく、水はあらゆる生命の源である。
どの場でも演者はひとりで、最終場まで顔は隠されている。サミュエル・ベケットの「クワッド」を想い起こさせる白い衣裳は帯と下着だけが黒い。第2場では、やはり樹木の中で踊る演者が上下動すると体が宙に浮かんだり地面に下りたりするように見えた。シンプルな、しかし必要な機能を過不足なく盛り込んだ衣裳デザイン(廣川玉枝)の手柄である。
第3場では、演者は平らな地面に寝転がり、もがくように踊る。すぐ脇に朽ちかけた墓石や、人型か羅漢像のような石像がある。人の土への回帰。ベケットの「人べらし役」が連想されるが、あとから思えば第9場の幕切れの伏線にもなっていた。

第4場は霊水・音羽の滝の上に建つ奥の院の裏手。水が湧出する崖に小さな観音像があり、その横に演者が拝むように座っている。これも水への表敬だろう。
第5場の舞台は成就橋と呼ばれる橋の上。夢幻能への接続。

第6場は「月の庭」とも称される成就院の庭。心字池の畔が舞台で、観客は月見よろしく座敷から遠見する趣向だ。奇岩と呼びたくなる庭石は人の背丈と不思議に釣り合っていて、形態的にも似ている。石も人も死者であるように思えてくる。

第7場は、廃仏毀釈の折に持ち込まれたという石仏が並ぶ「千体石仏群」。いわば、大量虐殺を免れた仏像の避難所である。仏は菩薩や如来など様々だが、いちばん多いのは地蔵で、水子が連想される。演者はゾンビのように現れ、鬼神のように石仏の間を跳梁する。
第8場ではゾンビ、もとい、演者が西門(さいもん)で激しく踊る。顔は相変わらず隠されているが、体形と身のこなしから森山だとわかる。朱塗りの柱と白壁の門越しに、とっぷりと暮れた京の町並みが借景として遠望される。唐十郎の状況劇場や寺山修司の映画『田園に死す』は、クライマックスで赤テントの端をからげたり、路上に置いたセットの壁を倒したりして、背後にある新宿の街を現出させた。これも同様に、観客を現実に戻らせる異化効果だ。
興奮に包まれたまま、演者と観客は最終場に移動する。顔をさらした森山が、清水の舞台を余すところなく使って縦横に動き、舞い、踊る。シンメトリーを崩す激しい身体運動。寺への、土地への、世界への表敬。最後に白い衣裳を脱ぎ捨て、しゃがみ込む。立ち上がると全身が緑色の蛍光塗料で覆われていた。誕生〜生〜死〜再生の劇的な表現だ。
●幕切れで感じたカタルシス

カタルシスが感じられる幕切れだったが問題がなかったわけではない。例えば、音楽/音響(立石従寛)は、この作品にふさわしくないように思えた。音楽自体の良し悪しではない。この内容、あの環境であれば、自然音をベースにして、音量もエコーも極力絞るほうが効果的だったのではないか。森山による語りも、ウィスパーボイスのほうが心に染みたと思う。オペレーションは大変だろうが、観客にイヤフォンを装着させてもよかったかもしれない。その点、静けさを強調した第4場は印象に残った。

第8場の西門は、そもそも使うべきではなかった。それまでの中世的・能楽的な空気が、朱塗りの柱によっていきなり近世的・歌舞伎的なものに変わってしまった。観客を現世に引き戻す演出はよい。だが、別の場所を使うべきだった。

そういった些細な瑕疵があったとはいえ、全体としては成功だったと言える。同じ場所での再演は難しいだろうが、関根光才による映像化が進められていると聞く。事前に調査した「聖地」の映像も加わるというから、大いに期待したい。

気候変動による温暖化のせいか、当日の京都は比較的暖かかった。桜は開花する直前だったけれど、山は恋の季節に野生動物が放つ匂いに包まれていた。生者必滅。しかし生命は循環する。「再生」あるいは「転生について」というタイトル通りの後味のよい公演だった。


訂正(4月28日):
4月26日にこの記事を公開した際、最後の小見出しの直後の段落に「死骸か棺を象徴するような黒いオブジェが随所に置かれていたようだが、暗くてよく見えなかった」と書きました。しかし森山未來さんから「本番当日は、(諸事情で)設置する予定だったオブジェを全部撤去した」という指摘を受けました。主催者に提供していただいた写真にオブジェが写っていたため、「暗くてよく見えなかった」と書いた次第ですが、撮影は本番前になされたようです。当該箇所を削除するとともに、指摘して下さった森山さんに感謝します。ありがとうございました。

おざき・てつや(Realkyoto Forum編集長。京都芸術大学大学院教授)

※『Re: Incarnation』は、2021年3月11日に、音羽山清水寺で上演された。