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文化時評6:金サジ「物語」シリーズより:山に歩む舟@PURPLE
当事者性ということ
文:清水 穣

2022.11.21
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金サジ「女たちは旅に出、歌と肉を与えた」
季刊『写真批評』の1974年6号は「特集・「記録」をめぐって」と題され、重森弘淹の司会のもと、荒木経惟、高梨豊、桑原史成による鼎談「歴史=日常」が掲載されている。若き日の尖った荒木はそこで次のように発言する:
広告のシステムとカメラのシステムは、今までの報道写真のやり口よりものすごく近いんだな。極端にいうと、広告とカメラとイコールにしてもいいくらいなことなのよ、要するに。[…] だから僕は広告というのが非常に好きなわけよ。グラビアページを見ているより、広告ページのほうがリアリティーがあるわけよ。バンバンとくるから。だから広告のほうがほんとうで、水俣はうそ。うそというと怒られちゃうけど、芝居だな、広告のほうがリアルなんだね。1
鼎談の前年に出たユージン・スミスの『水俣:生 ― その神聖と冒涜』(1973年、創樹社)のなかで、荒木が「うそ」の「芝居」と断ずる写真は、おそらくシリーズ中で最も有名な、水俣病患者の上村智子さんと母親との入浴場面、通称「水俣のピエタ」である。母親に横抱きにされた、水俣病特有の症状を示す肢体は、そこに注がれる慈愛の眼差しと鋭いコントラストを成して見る者を撃ち抜くとともに、キリストを抱く聖母を連想させずにはおかない。この「芝居」に涙しない観客はいないだろう。スミスのアシスタントを務めた石川武志の『MINAMATA NOTE 1971〜2012』によれば、写真家本人もまた、自分の「水俣」が「失敗作」であることに自覚的であった。撮影の数年後に亡くなった智子さんの家族も、娘の写真が水俣のアイコンとなったことで葛藤を抱えつづけ、結局はその公開を全面的に拒絶するに至る(1998年)。もはや写真に当事者の苦しみや現実は決して写らない、誰が(当事者を含む)写したとしても、それはカタルシス ―泣ける芝居や悲惨のポルノ― として消費されてしまうから、と。2

金サジは2016年度キヤノン写真新世紀グランプリを受賞して注目された。受賞作「STORY」は、いわゆるステージド・フォトであり、作者は、死と生、男と女、人為と自然、国家(ネーション、マジョリティ)と民族(在日コリアン、マイノリティ)といった概念対に、世界各地の神話や宗教から借りてきたモチーフを巧みに組み合わせて、ハイブリッドな「物語」を演出していた。そのシリーズが完結し、赤々舎から写真集として出版される(12月刊行予定)。

双頭の白蛇

剣に土

「STORY」は最初から分裂していた。一方で、作者は在日コリアンであり、多くの演出に朝鮮の風俗が登場するので、いわゆるマイノリティのアイデンティティを表現しているのかと思えば、他方で、朝鮮と関係ない名作絵画や宗教画のモチーフや形式 ―ファン・アイク、三連画、古事記の桃、男根崇拝、神道の稲穂、旧日本軍の銃剣、ペルーのミイラ― などが混入して、アイデンティティはハイブリッド性へと異化される。なるほど、ポストコロニアリズム以降、どこか単一の民族や人種や国家、神話や伝統、男らしさ女らしさといった本来性の概念を、われわれは、よほど歴史に無知で素朴でも無い限り信じられないはずで、だから作者もまた、非本来性、複数性、ハイブリディティの側に立っているのかと思えば、アーティスト・ステイトメントには「男は社会に繫がる方法を求めていたのに対し、女は生命が繋がる方法を常に求めていたのではないかと私は考える」などという、フェミニストなら鳥肌が立つような、昭和の男女観が登場し、最初に挙げた本来的な二元論があいかわらず居座っている。

双子

地面を切り分ける

全シリーズを通覧した人は、この本の主題が、まさにその「分裂」にあることを理解するだろう。両性具有の理想郷から堕落し、世界を産む鶏は首をはねられ、血の代わりに花々を吹き出した。そこに双生児(青い衣と赤い衣)が宿り、2つに割れた物語=歴史が、始まる。二人は生(妊娠、出産、成長)と死(不毛、破壊、老化)、女と男、静と動、平和と暴力、自然と人為…という2極のあいだを揺れ動きながら成長し、やがて、青い衣と赤い衣を羽織った二頭の月の輪熊が見守る、三連画の中央パネルでクライマックスを迎え、まるで写真史を参照するかのように、青い衣が赤い衣を抱くピエタが登場するのである。太陽の世界と月の世界のあいだで、あらたな命(有精卵)の誕生に立ち会うその姿は、湖面に写り込んで、赤い衣が青い衣を抱くピエタに変わる。

卵が出現する

永遠に歩く人々

全体を通して、ロケーション、布や皮膚や地層の質感、素材やモデルが的確に選ばれており見飽きない。とくに老人、男性、子供のモデル ―太った巨漢、たくましい顎や腕、虚無的な表情を浮かべた昭和の子供― は、時間をかけて探し出したのだろう。他方で、金の演出は、ちょっと引いて見ればかなりキッチュで、被差別の当事者が抱え込む分裂という深刻な主題に、独特の軽みを与えている。剥製感丸出しの月の輪熊に吹き出してしまう人もいるだろう。

夢を見る娘 (7匹の鳥と)

マイノリティの立場に置かれた当事者としてこの世界の不条理を表現するという隘路に、金は「あるがままの現実」ではなく、STORY=物語から入っていく。当事者であるとは、単数と複数のあいだ、双数であることの強制であり、二元論に囚われ、そこで引き裂かれているということなのだから。『STORY』はローカルである。日本と在日を、男と女を越えない。アイデンティティという壁が立ちはだかっている。そんなことは百も承知なのだ。しかし、複数性! n個の性! ポストコロニアルな非本来性! アイデンティティ・フリーな多元的社会!・・・そんな、誰もが頷く理想的で観念的な正しさの手前で、当事者の心にはわだかまりが溜まっていく。この本は、そのわだかまりの昇華である。

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(注)
1 季刊『写真批評』第6号、東京綜合写真専門学校出版局、1974年。46頁。
2 石川武志『MINAMATA NOTE 1971〜2012 私とユージン・スミスと水俣』千倉書房、2012年、137頁、139〜140頁。「いつもテレビの照明を浴び、カメラのフラッシュを浴びながら智子は我慢して耐えてきたのです」「もう死んでまで我慢させたくない」。著作権者のアイリーン・スミスが「水俣のピエタ」の非公開を容認したことは、スミス夫妻と水俣の関係が決して「うそ」でも「芝居」でもなかったことを証している。

しみず・みのる
批評家。同志社大学教授

『金サジ「物語」シリーズより:山に歩む舟』は、京都のPURPLEで2022年10月27日から11月14日まで開催された。

金サジ写真集『物語』はPURPLEのサイトで先行予約販売中