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特別寄稿
公共領域における対立————立川ファーレ問題について
文:アズビー・ブラウン

2023.01.31
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岡﨑乾二郎《Mount Ida イーデーの山(少年パリスはまだ羊飼いをしている)》(1994)
今年1月の第二週に立川髙島屋S.C.が注目を集めた。新聞数紙が、同社が岡﨑乾二郎の大型パブリックアート作品《Mount Ida イーデーの山(少年パリスはまだ羊飼いをしている)》を1か月以内に撤去・解体することを計画中と報じたのである。この作品は28年間にわたり、東京西部のファーレ立川にある髙島屋百貨店の西側に立ち、堂々たる存在感を示していた。

撤去計画を聞いて、アーティストや文化芸術関係者から大きな懸念が示された。作品解体計画を知った小説家の福永信は、意思決定の過程を疑問視した記事を発表し、ネット上で広く共有された。新聞各紙による続報は幅広い議論を呼び、著名な批評家やキュレーターが公に非難の声を上げ、オンライン署名運動も始まった。1月19日、髙島屋は取り壊し計画の見直しを発表。作家は、迅速かつ見識ある同社の対応は称賛に値すると感じているという。結構な結末である。

この一件は落着したように見えるが、経緯の全体を通して、日本におけるパブリックアートの不安定な状況と、共有文化財としての適切な保護の欠如についての、非常に憂慮すべき数々の現実が顕になった。おそらく最大の問題は、アートを中心とするファーレ立川自体の開発計画の背後にあった当初の論理的根拠と、地域の歴史的な背景が忘れ去られていたことだろう。歴史は連続体であり、いまに先立つ対立や紛争が真に消え去ることは決してない。1990年代初頭、《イーデーの山》が企画・制作されたときに文脈を形成した諸問題は、今日の世界における文化や政治経済に直面する多くの人々に密接に関係している。問題の中心は、公共領域を定義し、保護することだ。

大正期から昭和初期。中央奥に縦に並ぶ4棟の巨大建築は航空機の格納庫。格納庫前の建物は大隊・連隊の本部。
《イーデーの山》は赤い矢印の位置にある(「写真でひもとく街のなりたち このまちアーカイブス:東京都立川」より)

《イーデーの山》が位置する場所は、そもそもファーレ立川の表玄関の一部を成すことが意図されていた。作品は象徴的な門のように側面につくられている。この都市計画は1994年に開始され、当時は、著名な国内外のアーティストによる109の現代公共彫刻を基本的な構成要素とすることが称賛された。岡﨑作品のように、多くの作品はサイトスペシフィックなものとして委嘱され、立川市のアイデンティティと個性を形づくっている。以来、およそ30年を経て地域は成熟し、作品は数世代に及ぶ住民や、遠方からわざわざ観に来る者を含む来訪者たちの脳裏に刷り込まれてきた。《イーデーの山》の解体・撤去の決定は、報道によれば、野外の小さな多目的スペースの追加を意図する百貨店ビルのリニューアル計画の一部で、これは所有者である立川髙島屋S.C.の経営方針変更による。同社は作品撤去後にどうするかに関して、代替地が見つからないということ以外には何も述べられなかった。

各事例によって所有のありようは異なるが、《イーデーの山》などファーレ立川の作品は、アートを中心とした歴史的な公共都市空間リニューアル計画の一部を成す。このような場合には、移動や撤去を含む作品に影響する変更は、関係者全員の同意、適切かつ透明性のある事前協議、そして地元の文化関連機関による助言が必要であることが、当初から拘束力のある形で明示されるべきだろう。これが標準的慣行となることが期待される。既存の合意および了解事項は、これまでは十分に機能してきたが、《イーデーの山》のケースは異例であって、日本において企業の意思決定がどのように下されるかについて、パブリックアートについてと同様に多くを語っている。いまとなっては極めて明白だが、とはいえ、誰もが真っ当にことを運ぶことを期待するだけでは十分でない。

《イーデーの山》設置場所の変遷(作品設置位置は赤く囲った) 
1. 日本政府の地図。年代不詳(おそらくは1940年ごろ)  2. 1965年の空撮。立川空軍基地の正門が示されている(マイク・スキッドモア撮影。2020年前後) 3. ファーレ立川の衛星写真(2022年現在)

根底にあるのはしかし、忘却という問題だ。岡﨑の《イーデーの山》、ファーレ立川アートプロジェクト、そして立川という土地自体が、忘れ去られた歴史と複雑に絡み合っている。1992年にファーレ立川アートプロジェクトが始められたとき、日本の「バブル経済」は崩壊しつつあった。80年代には新しいアート施設が国の至る所に建てられ、その内のいくつかは立ちゆかないことが判明しはじめていた。すでに「パブリック」アートについての批判的な議論が浮上していて、アート作品を単に公共空間に設置して、注目を集めるものとして、あるいは記念碑的なランドマークとして機能させることは、環境破壊的でないとしても十分ではないという意見が続出。岡崎が説くように、周囲の文脈と一体化し、我々が日常の職務や行事に追われて普通は忘れてしまうやり方で、意識の外縁に自覚を生じさせるような、環境に配慮した新しいパブリックアートが求められていた。ファーレ立川の「機能(ファンクション)を美術(フィクション)に」という基本コンセプトは、このような議論を背景に生まれたのである。

パブリックアートは、意識の片隅に追いやられているものに注意を促すことができるだろうか。この質問はそれ自体、当時もいまも、都市計画の文脈においては知的に極めて野心的なものだ。ファーレ立川の場合にはしかし、意識の片隅に追いやられていた中で最も大きな存在感を示すものは、土地自体の暴力的な歴史なのである。

第二次世界大戦の前、そして戦中には、ファーレ立川が現在位置する場所は、日本でも屈指の軍用飛行場に占められていた。地元の農民の土地は基地建設のために強制的に徴用され、戦後には米軍基地となる。そして朝鮮戦争後に、日本政府は米軍のために再び強制徴用を行い、滑走路は拡張されることになった。当局は収容した土地をフェンスで囲いはじめ、砂川闘争として知られる農民と市民による大規模な抵抗運動が1955年5月に現地で始まる。闘争は2年ほど続き、集団で座り込む無抵抗のデモ参加者を、警察が激しく殴打するというすさまじい暴力が目立った。その後、基地拡張計画は頓挫し、憎むべきフェンス内の土地は空き地となったが、農民たちは土地の一部を自主的に耕しつづけた。

「砂川闘争」で抗議する地元住民と頭上を飛ぶ米軍輸送機。(画像は1956年ごろ。「写真でひもとく街のなりたち このまちアーカイブス:東京都立川」より)

米軍基地の存在と社会的・政治的な折り合いをつけることは、戦後日本の芸術・文化全体の明確な特徴のひとつである。国がアメリカに経済依存している事実と海外支配から脱却したいという欲望との葛藤が最大の原動力だった。立川ほど、こうした葛藤を明白に内包している土地はない。当時の痕跡がいくつかは残っているものの、ファーレ立川の開発は、強制収用と暴力というこの地域の重要な歴史を、事実上葬り去り、忘却することを促した。しかし岡﨑の《イーデーの山》は、明示的な追憶として、そしてこうした記憶を防護フェンスの中に保持するための手段として構想されている。住民たちは作品の中に、フェンスで囲われ、外部の力によって歪にされた狭い土地を占拠していた自らを見出す。その間、羊飼いの少年パリスは監視を続けている。作品の成り立ちと意味については、岡﨑自身の説明を読んでほしい。

※岡﨑乾二郎「Mount Ida─イーデーの山(少年パリスはまだ羊飼いをしている)撤去問題について」

ファーレ立川アートプロジェクトへの参加アーティストが全員、「機能(ファンクション)を美術(フィクション)に」というコンセプトやこの土地の痛ましい歴史的背景を把握していたとは思えない。海外アーティストの中には素晴らしい作品をつくった者もいたが、現地で十分な時間が取れた作家はほとんどいず、理解が及ばなかったとおぼしい。というわけで、ファーレ立川の彫刻群には、立川の都市機能に「寄生」していると言えるものと、従来の野外アートオブジェに近い性格のものとがある。だが《イーデーの山》のように、表明された要件を十分に満たす作品も存在する。

ここでもうひとつ重要な歴史的ベクトルは、永続的でなくてもいいという気運が高まりつつあることとそれがどのような結果を生むかである。ここ数十年というもの、日本では一時的な公共アートフェスティバル「芸術祭」が盛んに行われるようになった。大規模フェスティバルは国内のいくつもの場所で定期的に開催され、多くの観客を集め、参加する興奮を味わわせている。挑発的な作品も散見されるとはいえ、岡﨑が指摘するように、その形式は「スクラップ&ビルド」的であり、一時的な作品の興奮や意義は、祭りが終わって解体されると消え失せてしまう(ファーレ立川を企画したアートフロントギャラリーが、日本におけるこの種の芸術祭の草分け的な存在で、現在も精力的に活動を続けていることは注目に値する)。

一方、一時的な公共フェスティバル式のアート作品がますます人気を博するにつれ、我々はそういった作品にあまり期待しないようになってきた。一時的な楽しみと気晴らしを与えられれば、たいていの場合は目的が達成される。しかしもっと重要なのは、芸術祭の背後にある期待と目的が、ファーレ立川の表向きの設立目的と正反対であることだ。ファーレのあるべき姿は、都市環境の中で恒久的な存在として残るような場所に作品を設置し、作品が長期間にわたって住民および来訪者の目に触れて眺められ、その環境の認識を根本的に、文字どおり形成することである。岡﨑の作品はそういった期待を見事に具現化し、通行人が何度も遭遇する内に作品に気がつくとともに、ゆっくりとその存在を露わにしてゆく。しかし、概して日本社会では、公有地に関する重要な問題は未解決のままであり、代わって大衆的な消費文化イベントの増殖に関心が集中する。

《イーデーの山》が辛うじて生き延びたことの教訓は真摯に捉えられるべきだろう。公共空間の大規模民営化が当たり前になってきたという文脈において、いま「パブリック」とは何か? そこで何が行われるかを決めるのは誰か? 平均的な市民が、私有でありながら文化的価値を獲得したアート作品、あるいは建物や風景に対してさえ、正当な利害関係者になるのはどの段階か? そのときアーティストの権利とは何か? 大規模野外アートの場合、金銭的価値が高いために暗黙の内に守られる作品がある。だが人間は、親しい人々との交流や信頼関係など実体のないもののためにも生きるし、それらも同様に守るに値する。岡崎の《イーデーの山》は、土地収用と周辺住民の排除の歴史を彫刻によって覆そうとした作品だが、その破壊の危機は、サイトスペシフィックな都市のパブリックアートが果たしうる役割と、それに期待すべきことについて熟考する重要な機会を与えてくれる。これはつまるところ、立川における土地をめぐる戦いに再び挑み、勝利した作品なのだ。

Azby Brown
アーティスト、文筆家、建築研究者。1985年以来、日本在住。
azbybrown.com

英文和訳:小崎哲哉