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AIRアーティスト・イン・レジデンスとは何か?(3):
― 遊工房の50年、そしてレジデンス活動30年と藤野別館のこと
文: 村田達彦

2024.08.07
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中瀬スタジオでの Ferit Özşen 1996

遊工房の歴史を話そう。事業の発端は美術教室である。私達運営者の情熱と共に、私の父が残してくれたスペースの存在も忘れてはならない。1950年代より東京23区の西端・杉並区善福寺の地で、診療所兼結核療養所(村田医院サナトリウム)は、時代の変遷と共に姿を変えていった。

美術教員でもあった連れ合いがこの地で「ヒロ美術の会」を創設したのは1975年、美術教室、彫刻アトリエ、アニメーション・スタジオとして、様々な芸術活動の「場」となり半世紀が経つ。子供の成長と共に「ヒロ文庫」を開設し読書会も行った。会には、子供、お年寄り、障がいのある方も参加していた。

こうした中で、1988年海外からのアーティストの来訪が我がレジデンスの始まりだ。初めの10年余は、いわゆるホームステイがベースで、アーティスト・サナトリウムの様相であった。自宅の居住スペースの一部や、当時所有していたアパートがレジデンスとなり、療養所の空きスペースなどが創作スタジオとして活用された。滞在の受入、創作活動への支援、そして何より在京アーティスト達や地域との交流の機会を大切にしてきた。1988年の建築家と彫刻家のホームステイ受入に続き、海外技術系大学生の東京での受入、また、東京や首都圏内にあった海外機関のレジデンス(オーストリア藤野レジデンス(後述)、オーストラリア・カウンシルVACB東京スタジオなど)滞在者や、国内での彫刻シンポジウム(岩手町、大田原、井波など)への海外からの参加者の来訪などにより、遊工房レジデンスの存在が少しずつ認知されていった。1990年代の10年間で、海外からの受入れは、かれこれ30人余、滞在期間は1か月から最長で5年とさまざま。受入れと並行して、縁の繋がった海外レジデンスへの創作滞在の機会創出も大事なミッションとして、当方からの国内アーティストの海外派遣も続くようになり、遊工房レジデンス事業は充実していった。

活動の経過の中、1996年に国際交流基金の招聘芸術家として、トルコからの彫刻家フェリット・オズシェン氏を受入れる機会が巡ってきた。東京杉並のスペースでは作家の希望する活動の実現に無理があることから、当時、芸術村構想をコンセプトにしてまちづくりを推進していた神奈川県藤野町の役場(現、模原市緑区藤野総合事務所)へ相談に伺い、町にある空家を借上げ「遊工房・藤野別館」として準備を開始した。東京の西端「高尾」の山を越えた神奈川県と山梨県の入り組んだ山深い藤野町で、全面的な町の協力を背景に、私たちのレジデンス活動は、当地に移住していた国内外のアーティストとの交流で充実した。また藤野町には、オーストリア政府が借上げていた山村の一軒家「オーストリア藤野レジデンス|Österreich Gästehaus in Fujino」が在り、本格的な自国アーティスト向けレジデンス事業として、年間の春夏、秋冬に分け、2組の日本滞在の体験機会を提供していた。滞在を謳歌していたウイーンからのアーティスト達との交流も重なり、実にユニークな活動展開となった。この縁からオーストリアのアーティスト達が、二度目の滞在先に東京の遊工房を利用するようにもなっていった。

オーストリア藤野芸術の家 Österreich Gästehaus in Fujino 1996

また、当時、地元藤野を中心とするアーティストグループが、森の中で野外アート活動「フィールドワーク・イン・藤野」を展開していた。丁度文化庁のレジデンス運営活動支援の補助金制度(県単位であったと記憶する)の始まる時期で、現地のアーティスト達との接点、その地でのアートによる地域活動の様子を学ぶ良い機会ともなった。

当時のトピックスを幾つか紹介したい。

  • 遊工房藤野別館での滞在作家フェリット氏の創作活動は、自然豊かな夏の藤野を背景に、入道雲をヒントに、高さ5mに達する鉄の作品「雨」の制作であった。藤野町在住の彫刻家・中瀬康志氏のアトリエをお借りして鉄の作品作りが進んだ。(作品「雨」の制作には)地元の小学生を動員しての塗装大作戦もあった。作品の設置は小高い丘のてっぺん、「フェリット・テペ(「テペ」はトルコ語で丘のてっぺんを意味する)」で行われ、関係者との盛大なお披露目会も行われた。

  • 遊工房藤野別館でのレジデンス運営は、藤野町の多大な協力により実現出来た。当時の倉田知昭町長そして町役場の方々、特に企画課の中村賢一氏のきめ細かいご支援は、その後、町とトルコとの親善交流に発展した。

「雨」by Ferit Özşen 1996 藤野芸術の道

このレジデンス活動の翌年1997年トルコ・イスタンブールの郊外のまち、トルコの「木彫シンポジウム」発祥の地デイルメンデレ町へ藤野町長一行の親善訪問により、藤野町とデイルメンデレ町との姉妹都市締結に発展し、次の年1998年にはトルコよりエルツール・アカルン町長が藤野町に招聘され、「神奈川県藤野町・トルコ共和国デイルメンデレ町友好親善シンポジウム “彫刻もあるまちづくり・現状と将来”」の開催へとつながった。その後、姉妹都市に関しては、藤野町議会での承認が得られず実ることはなかったが、現在も、藤野町の人々との縁は続いている。

ユーラシアの架け橋 1998 日土彫刻家協会

遊工房レジデンス30年の初期10年の活動が、遊工房の芸術支援活動の骨格を形成したと確信している。国内外のアーティストが一定期間滞在しながら制作する、アーティスト・イン・レジデンス(AIR)と、在京作家向けスタジオや、作品を展示・発表する非営利ギャラリーを主たる事業とし、同時に、芸術文化を通した地域活動を推進している。「ユー(あなた・遊)」の「工房」として、アーティストの自律的な活動の支援を通し、多くの方に芸術文化を身近に体験できる機会と親しんで頂く場を提供している。

2000年に入り、東京・杉並でのレジデンス・プログラムは、さらに活動を充実させるため施設の改修工事を経て、2001年、主に現代美術の発信を目的とするギャラリー、創作スタジオ及び滞在施設を備えたアートの複合施設として生まれ変わり、「スタジオ遊工房」から、「遊工房アートスペース」と名称を改め、グローバルには、海外アーティストの受入と国内アーティストの海外派遣を基に、ローカルには、地域に根ざした芸術活動も推進しながら事業を着実に進めてきた。これまでに、50カ国以上、360人超の海外からのアーティストを迎え、150人を超える国内アーティストの海外派遣のお世話をさせて頂いた。

遊工房アートスペースは、多様な創作活動に応える実践の場となることでアーティストを支え、アートの社会的な役割とその重要性を提示することを目指している。




村田達彦(むらた・たつひこ)
30年の技術者としての生活の後、1988年より、創作・展示・滞在のできるアーティストのための創作館・遊工房アートスペースをパートナである村田弘子と共同で東京に設立。2010年から、マイクロな存在の独自の運営をしているアーティスト主導の世界にあるAIRプログラムを「マイクロレジデンス」と名付け、その顕在化、AIRの社会装置としての役割についての調査・研究を国内外のネットワークを通し推進している。
2015年からは、レジデンス活動と美大との連携による、Y-AIR, AIR for young(AIR活動機会をもっと若手作家へ!)の実践も展開している。遊工房アートスペース・共同代表。Res Artis名誉理事。