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江之浦連歌
有時庵(磯崎 新)+呆気羅漢(杉本博司)
解説:浅田 彰

2020.03.31
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俳諧老人に成る、の記 


事の発端は一つの出演依頼だった。NHK俳句という番組があるらしい。そこへゲストとして出演してほしい、せっかくなので数手詠んで披露せよとのこと、時はまさに東京都写真美術館リニューアル記念展「杉本博司 ロスト・ヒューマン」展の真最中(2016年秋)。文明の終わる、その終わり方のシナリオを三十三通りお見せしようという、化け物屋敷のような展覧会、もちろんウィルス話も盛り込み済み。そこで終焉の場に悲しみと諸行無常の三十三句を詠み込んで披露したのが馴れ初めで、俳号を請われて呆気羅漢と号するなり。

その時の自己紹介文


末の細道


俳句などを詠めとの仰せに、おぼつかなくおぼゆるに、まづは手本にと芭蕉の「奥の細道」をひもとく。月日は百代の過客との書き出しに、はたと我が身に感じ入るところあり。こは何の因縁ぞ、我ここに人の世の冥土への旅路を語らんとす。さらばここに、芭蕉の道に習いて一句読みい出さんと思い、この処女句集、「末の細道」とや名付けん。


処女にして 冥土詠むこそ 悲しけれ


世の果てに 季語を欲せど 季節なし


呆気羅漢


その後幾多詠むうちに、詠みい出す句、これすべて俳句の体をなさざりしけり、もはや狂歌なりやと思い至り、狂歌師として再出発を志すに至れり。その時の宗旨替えの言。


西行法師の歌論に感じ入り、歌論など書かんと思い立ち候。酔狂の極みなり。

 

狂歌の言


人生これ暇なり。暇をいかに潰すか、これ人生の肝要なり。異性を求むるもこれ暇つぶしなり。一時の高揚ののち、飽きればまた暇なり。文学は暇より生まれけり。喰うには最低賃金で事足れり。八時間の滅私奉公、残りは暇の十六時間。人の世の半分は寝ても覚めてもこれ暇なり。暇つぶしの好物はひつまぶしなり、これうまし。

暇をいかにやりすごすか、これ人生の要なり。「この世にぞ 暇こそ恐ろしきものはなし 暇と肥満は目下のかたき」。暇こわさ、ホーレーショの哲学に暇を潰すも一理あり。他にも宗教、いやいや深入りなりませぬ。この世とは神様が暇つぶしに作られたとか、もっぱらの噂なりや。暇つぶしに最も適したるは学問なりや。一生をかけて宇宙の大をはからんとするも、弁当の隅をつついて終わるが幸せ。暇つぶしに堪えられぬ輩は芸術の道へと向かうや、これまた自己撞着の幸せへと行き着かん。幸せとは、いかに暇つぶしの暇つぶしと思わざるや。

我ここに生まれ落ちて狂い咲き、その心情を吐露するに至れり。狂歌詠み「素遁卿」と申すなり。ここに狂歌連を立ち上げ、狂歌合宿を始めんとす。まずは詠みいでん。


めでたさも 宙ぐらいなり おらが春 めでたくもあり めでたくもなし


素遁卿


藤村操

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