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アーティスト・イン・レジデンス(5):
震災とAIR、陸前高田AIR(1)
文: 日沼禎子

2023.09.18
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2014年にオープンした箱根山テラス

◉ 新たなAIRへの挑戦

ACAC開設準備室からはじまり、無我夢中で多くの試行錯誤を繰り返しながら過ごした12年間は飛ぶように過ぎて行った。公共事業としてのAIRは「わかりにくさ」、「成果の見えにくさ」など多くの課題を抱えていた。しかしその一方で、アーティスト、つまり「私(個)」から発せられるアイデアや創作活動と、多様な鑑賞・参加者、あるいはその土地の歴史や文化をも含めた「公」との邂逅や対話からは、「今ここ」でしか得られない表現と経験、言葉を超えたつながりが次々と生み出されていった。それらが地層のように積み重ねられて、やがて10年、20年、あるいは100年という時間を経ながら、その土地の文化、つまり、煌びやかな成果としてというよりはむしろ、塵や芥ともなり還元されていく。それが文化であり、ACACという場のミッションであり、成果へとつながるものと信じてきた。私だけではなく、この事業に関わったディレクター、キュレーター、テクニカル、行政職員そしてボランティアのサポーターチームの皆が等しく、モデルケースの少ないこの初めての試みの中で、時にはぶつかり合い、理不尽な思いも抱えながら、それでも共に道なき道を共に切り拓いてきたのだと思う。それは、「公共とは何か?」という命題について共に問いかけ続けた時間であり、人々とアートとの出会いの場に立ち続けてこれたことは、どのような苦労さえも忘れてしまうぐらいの喜びに満ちた時間であった。しかし、自身にとっては束の間のようであったとしても、12年という時間は決して短くはなく、確実に時代が変化し続ける中で、自らの役割を再び模索する中、その機会が訪れた。まだまだ取り組みたいことも多くあり、家族がいる故郷・青森から離れることは寂しく不安もあったが、次世代の教育に携わる仕事へシフトすることを決めた。

そして、あの忘れることの出来ない日がやってきた。

2011年3月11日。私は、その前日に、東京での新居探しを終えて帰宅をしたばかりで、自宅のある青森市内は広域で停電となり、家族がひとつの部屋に集まって一夜を過ごした。非常用ラジオから流れてくる情報から少しずつ何が起こっているのかがわかり始め、翌日、電気が復旧し、テレビの電源を付けたその画面上の映像に言葉を失った。大津波が東日本各地の沿岸部を飲み込み、そして福島原子力発電所が爆発し、崩壊する。多くの尊い命が失われ、世界中に悲しみと恐れとが拡がっていった。これまで信じていた価値は大きく揺らぎ、何もできない自分の無力さ、弱さを知った。

ほどなく、ACACの過去のレジデントアーティストからいくつものメールが届きはじめた。「日本は、東北は大丈夫か?」「自分たちにできることはないのか?」と。私にはその問いに対するふさわしい言葉を即座には見つけることができなかったが、ただひとつ伝えたことは「あなたとアートが役割を果たすことができるのは、今ではない。もう少し後。いつか必ずその時がやってくるだろう。」と。

2023年8月現在の風景。津波の爪痕はほとんど残されていない。

東京で大学教員として働き始めてから約2年が過ぎた頃、その「時」はやってきた。発災後からすぐに災害ボランティアの活動に参加していたデザイナー・働き方研究家の西村佳哲氏と、とあるイベントで再会を果たし、近況を交換しあっていると、彼は岩手県陸前高田市で計画されている新たな宿泊施設「箱根山テラス」のプロジェクトに関わっているという。事業主は陸前高田の経営者を中心に設立された「なつかしい未来創造株式会社」という復興まちづくり会社。「なつかしい未来」という言葉は、スウェーデン生まれの人類学者ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ『懐かしい未来~ラダックから学ぶ』からの引用で、グローバリゼーションのなかで推進される環境破壊や自然破壊、地域共同体の崩壊に、どのような新たな未来が描けるのかを模索する彼女の考え方、言葉に感銘を受け、陸前高田市の将来が「創造する」地域であることを願って名づけられた。そして、10年間を活動期間と定め、地域にトータルで500名の雇用を産む企業を創ることを目的としている。「箱根山テラス」は、同社の中心事業のひとつとして取り組んでおり、「木と人をいかしてそのつながりを育む」をコンセプトに、三陸のリアス式海岸、広田半島と唐桑半島の2つの半島に挟まれた穏やかな広田湾を見下ろす山の中腹に建設が予定されていた。

箱根山テラス

地域の人々と来訪者との交流や学び合いの場となるよう建物の中心に共有スペースを据え、さらに地域の木質資源を生かし、建材としての使用をはじめとし、ペレットストーブ、ボイラーの導入による熱エネルギー供給を実現し、人々の出会いと共に、新たなエネルギーと経済が循環するしくみづくりを目指すという。西村氏はそれらのコンセプトづくり、デザイン提案、建築や今後さまざまに展開していくワークショップを想定しながら、それらに関わるさまざまな人々をつなぐ役割を担っていた。地域の豊かな資源と、歴史、文化、風景へ託した人々の良き記憶を、豊かな未来づくりに活かしたいと理念に、私は強く心を動かされた。この場所のために、私ができること。それはAIRというしくみをもたらすことによってアーティストと地域の人たちをつなげ、ともに未来を想像し、創造へとつなぐ種を蒔くこと。それは、まさにAIRではなくてはできないと確信した。そして、押しかけ同然でAIRプログラムを提案。同社の役員やスタッフからは半信半疑ながらも、取り組んでみましょうというお返事。ただし、プロジェクト予算および人員の確保も含めてディレクションをするという宿題付き。復興事業がはじまったばかりのこの地では、人々はこれまでの住まい・暮らしを失い、仮設住宅での暮らしを余儀なくされ、瓦礫の撤去と新たな造成地計画工事の真っ最中である。資金も人も場所も無い。無いもの尽くしの中で、果たしてAIRは成立するのか。こうして、新たなAIRへの挑戦が始まった。

高田松原跡地に立つ「奇跡の一本松」は、東日本大震災の震災遺構のひとつ。

◉ 記憶の風景、なつかしい未来へ

AIRを実施するためには「拠点」があることが大前提である。アーティストが滞在し、創作活動をする「場」を提供するというAIRの根幹となる「拠点」をどうするかということは。私は物理的な「拠点」としてのスペースや場ではなく、この地に暮らしてきた人々の「記憶」そのものを「拠点」とする、つまり「拠り所」として捉えたいと考えた。アーティストのリサーチや表現によって「記憶の風景」を立ち上げ、そこから未来へのイマジネーションに繋げていくということを想像し、プログラムタイトルを「陸前高田アーティスト・イン・レジデンス-記憶の風景、なつかしい未来へ」とした。また、アーティストの選定については物量をもった「モノ」を制作するのではなく、身体や記録にまつわる表現に関わり、土地の文化に対する深い洞察力やコミュニケーション力を持ち、私が過去に共に仕事をした経験のある者、または信頼できる他のAIR団体による推薦を受けた者から、私が適任であると判断したアーティストへ直接オファーをする方法をとった。それは、心身共に傷つき、疲弊する人々が暮らす地域でのAIRのあり方として、アーティストや私たちスタッフも含めた「よそ者」の振る舞い、態度が最も問われるだろうという考えからだった。さらには、リサーチや記録などのプロセス、地域交流を中心に据え、いわゆる公共事業としてのAIRが招へい条件とする作品制作を必ずしも求めないこと。ただし、しかるべき「何か」が表出したならば、アーティストの発案に応じて、プレゼンテーションや展示を行うという柔軟なプログラムを計画した。滞在先は、同社の代表取締役が経営するドライビングスクールの合宿免許取得者向けの宿舎を借用。事務局兼コーディネーターとして、宮城県出身のアーティスト松山隼、カナダからワーキングホリデイで帰国したばかりの野田さゆりの二人を迎え、運営費については文化庁からの助成事業として採択され、ようやく体制が整った。

こうして2013年11月、ダンサー、振付家のショーネッド・ヒューズ(ウェールズ)、写真家のレオ・ファンダークレイ(オランダ)、マルチメディアアーティストのハイメ・パセナⅡ(フィリピン)の3名による約3ヶ月にわたる滞在プログラムがスタートした。(次回へ続く)

アーティスト・イン・レジデンス(1): 自由と安全、多様性を担保し、アーティストをインスパイアする場
アーティスト・イン・レジデンス(2): AIR〜場との出会い、対話がもたらす唯一無二の表現。異文化への理解と敬意
アーティスト・イン・レジデンス(3): 文化の継承とAIR、サスティナビリティへの視点
アーティスト・イン・レジデンス(4): 世界を眺め漂うパイロットの目になる
アーティスト・イン・レジデンス(6): 震災とAIR、陸前高田AIR(2)
アーティスト・イン・レジデンス(7): 世界とつながるネットワーク、そして未来につなぐAIRのあり方



日沼禎子(ひぬま・ていこ)
女子美術大学教授、AIRネットワーク準備会事務局長、ときわミュージアムアートディレクター。1999年から国際芸術センター青森設立準備室、2011年まで同学芸員を務め、アーティスト・イン・レジデンスを中心としたアーティスト支援、プロジェクト、展覧会を多数企画、運営する。さいたまトリエンナーレ2016プロジェクトディレクター、陸前高田AIRプログラムディレクター他を歴任。