パスポートを取り上げろ! パラソフィア・レヴュー補遺
福永 信
2015.03.31
ゲーテ・インスティテゥート・ヴィラ鴨川(以下ドイツ)にておまちかねのトークショウが開催される日なのでタクシーで乗り付けた。開演時間の15時を少しまわって、館長のマエセツが終わりかけたところであった。今回のトークは、この3か月間京都で滞在制作をやってきたドイツ人アーティスト達が、日本人のゲストと共に「PARASOPHIAクロスレビュー」と題して、パラソフィアの感想を語るというものである。ドイツには通年で3度、数名のアーティストが、滞在制作にやってくる。アーティスト達は3か月で入れ替わっていくが、来日直後に一度、3か月後の離日直前にもう一度、「座談会」といういささか古風な日本語が用いられたトークイヴェントに出演する。毎回テーマが設定されるが、最初のときは、自作解説がメイン、2回目の離日直前のときは、自作から離れて、もっとひろく、アクチュアルな話題をめぐって語る、そういうプログラムである。マルクス・ヴェルンハルト館長と、司会の小崎哲哉氏によってテーマが決められていると聞く。レジデンス作家との接点の共有がむずかしいんだ、テーマで毎回悩むぜ、というようなことを館長から私は直接聞いたことがある。また、今日は盛り上がらなかった、とほほ、と、その長身の背中に悲哀をにじませながらうつむきかげんにションボリしていた姿を見たこともある。たしかに迷走するときもあり、以前、京都市立芸術大学の移転問題がトークのテーマに据えられていて、私はイスから落ちたものである。トーク中、レジデンス作家達の頭上に、ハテナマークがずっと浮かんでいるのが私には見えたものである。というかはっきりと退屈そうであったのをこの目で見た。つまり客席のこっちもまた退屈だったのである。むろん、語りやすいテーマばかり選ぶことをしない、その心意気はすばらしい。失敗がある、負けがあるのはライヴの当然である(ずっと勝ってもつまらないし、発見がない)。失敗してもへこたれないのがドイツである。実際、戦後のドイツもへこたれることがなかった。次回のテーマは「偶然の芸術」だという。クラシックなテーマだとは思うが少なくともドイツ人のレジデンス作家達は、「偶然」このメンバーというか組み合わせで京都で生活することになっているわけで、「偶然」というのは、まさに彼らが、経験していることでもあるだろう。その意味でも興味深いし、レジデンス作家達のラインアップを見ると、美術家だけでなく、人形劇作家、映画製作者、ラジオドラマ演出家、音楽家、とまったくバラバラな組み合わせでおもしろそうである。日本人ゲストは、「地点」の三浦基と、美術家の宮永愛子で、これまた喋るとなお面白いおふたりである。司会の小崎哲哉も一見、落ち着いた風情であるが、前にも書いたが無類のお喋り好きであり(お喋りを聞くのも好きなんだろう)、私はその姿を見ると毎回、微笑を浮かべる者である。というわけで4月25日(土)の15時から2時間は空けておいてぜひ見逃さないようにしたい。私は手帳にはすでに、「ドイツに座談会を見に行く」と書いてある。
さて、今回の話にもどると、テーマは、パラソフィアを大いに語るというものである。日本側からは、来年のあいちトリエンナーレの芸術監督を務める港千尋氏と、様々な企画展において関西の作家達を送り込んできた原久子氏が参加した。登壇したドイツ人の作家達は、自分からこうしてレジデンスに積極的に応募するような旅人系アーティストであるから、今回のお題は、わりと乗り気であったように思えた。そして事実、なかなか率直な感想が聞こえてきたのである。たとえばこんなふうだ。「京都市美術館の展示で印象に残ったのは、作品よりも、ルートだね。そう、順路のことさ。親切にも、こっちへ行きなさい、あっちへ進みなさいと、ルートがしっかりと決められていて、ぼくなんかには、ちょっと奇妙に思えたよ。なんでもっと自由に見させてくれないんだい? 日本人らしいこまやかな感性のなせるわざなのかもしれないが、なんだかキュウクツな気がしたなぁ。しかも、にもかかわらず、それぞれの作品のつながりは不明瞭なんだぜ? なんでアナ・トーフの作品を見る直前の部屋に、あんな、まっ黒くてでっかい映像インスタレーションがあったんだろ。アナ・トーフの部屋は真っ白なんだよ? 目がちかちかしちゃうじゃないか。田中功起の作品は興味深かったけど、あんな出口に近いスペースにあったら、ぜんぜん時間の余裕がなくて、見られないじゃないか。なんで田中の作品があの場所だったのかミステリアスだ。ルートを敷くぐらいなんだから適切な場所が選ばれたはずだろう? 石橋義正の映像インスタレーションは、順路があってその通りに観客は歩いて映像をたどっていくだろ。気持ちはわかるんだけど、それだと観客に多くを求め過ぎちゃうんじゃないかな。こっち行ってこれ見てくれ、あっち行ってあれ見てよ、と促されるのは、なんというかちょっと問題だとも思うんだよ。ほら、別の場所の、京都文化博物館って言うんだっけ、そこでは森村泰昌の作品があったけど、あれもまた、複数の写真作品をこっちからあっちへと、順番に見ていくことが要請されていたよね? ここでも順番かよ、と、ぼくはイスから落ちそうになったよ。まあ、イスに座ってなくて、立ってたからよかったけどね。森村のインスタレーションは、美しかったとは言えるけど、天井からのスピーカーによる複数の音声、あれは意味不明だったぜ。音声が混じって、ノイズになっちゃってたじゃん? しかも、作品は、そもそもあんな音声解説抜きで理解できるくらいわかりやすい入れ子構造だったじゃないか。いったいあれは誰得なんだろうね?」。思い出しながら書いているうちに、港千尋、小崎哲哉両氏の発言を含め何人かの発言をミックスしたものになってしまった上に、客席の私の心の声も若干混ざってしまったが、およそ大意はこんなものだったと思う。つまり、パラソフィアは、親切設計のような身振りをしながら実際はそうなってない、その親切さは偽装されているというわけである。
たしかにその通りで、私も「入ったらすぐ正面の階段を駆け上がれ!」と、2階から逆走して1階のスタン・ダグラスのマイルス・デイヴィスのライヴで休憩、というのを提案したいが、むろん、そんな「ルート」は観客それぞれがアレンジして行ったり来たりすればいいことだ。パラソフィアの親切設計の偽装は、ルート、順路、並び順なんかよりもむしろ、パスポート制の導入、こっちの方が問題であると私は思う。こないだ「1日じゃ見られないじゃんかブー」という内容の文章を書いたばかりなのだが、浅田彰氏や小崎哲哉氏に、昨日、そのへんもっと明確にするといいよ、と指摘を受けたので、今、ここに補遺として書いておくと、「何度でも見放題のパスポート制は、国際展にはつきものだが、これを基準に展覧会を作られたんじゃたまらないぜ」というのが私の意見である。たしかにパスポート制にすれば、会期中何度も足を運ぶことが可能になる。開館時間に見られなかった映像作品も後日あらためて鑑賞可能になる。それは観客サイドに立っているようでもあり、だから大規模な展覧会ではこのシステムが導入されている。おそらくパラソフィアも、それらの例にならったのだろうと推測する。しかし、「ならった」だけで、何か今回オリジナルな要素が加わった気配はない。なぜなら、パスポート制の弱点は、まったく問われていないからである。パスポート制の弱点とは何か?
それは、「何日も京都にいない者」が排除されていることだ。「1日で見ようと思っている者」を考慮してないことである。「パスポート制を導入してるんだから、こちらには不備はなく、また日をあらためてお越しください、おおきに」と上から目線で言っているように見られても仕方がない。「お得意さん」は全部の映像が見られるが、「いちげんさん」は全部見る資格はない、失せろ、というふうに受け取られてもしょうがない。私は、格差社会のミニチュアを美術館で再現してどうする、と思うのである。ほかもやっているのだからいいじゃないか、は、ダメだぜ。せっかく志高く新しく国際展をやるんだから、新しいことをもっと目指さないといけない。プロセスを重視していた貴君のことだから、「新しさ」を模索することは嫌いじゃないはずだ。どうか、大規模展なのにフシギと「1日で見ることができる」を目指して、ほかの国際展をうらやましがらせてやろうじゃないか。いや、今からでも遅くはない。むしろ、パスポートを取り上げる。パスポートは返納させる。そして、普通のチケットで会期中何度でも出入り自由にする。チケットは大人1800円だが、180円にしてはどうか。市営地下鉄&市バス初乗り運賃よりもはるかに安い。民間の力を見せてやれ。あまりにも安くて不安だ、わしは現行パスポートと同じ6000円で購入したい、という人もいるかもしれない。そういう人には、ふるさと納税的にグッズ付で6万円で売る、とか。もちろんいろいろと面倒なことはあるだろうが、もっと自信を持ってくれ。もっとほかを驚かせてやってくれ。志を高く持つことが、この場所でやることの意味である。大阪とはちがうと言ってやれ。おれたちはこれで勝負をするのだと、ほかをなぞるんじゃなくて、できるだけほかと似ないこと、今がいいわけじゃないが、これまでもよくなかった、だから新しく考えるんだ、と、そう言ってやれ。病気で入院してるから1日しか見られないが、とても楽しかった、と、そんなふうに思ってもらえるような展覧会を、どうか、作ってくれないか。がんばってくれ。どうか胸を張ってくださいな。
さて、ところで、私はタクシーで乗り付けた、と冒頭で書いたが、きっとかっこいいだろうと思ってそう書いたのである。むろん実際に乗ったが、ほんとは歩くつもりだった。このトークの前に、@KCUAへ行って「still moving@KCUA」を見てきたのである。これがなんともすばらしかったのだ(時間を思いのほか余計にくったわけだ)。展示されてるのは、京都の若手、中堅の作家達だ。同館学芸員の徳山拓一氏によれば、伊藤存、青木陵子、金氏徹平などパラソフィアに参加していないが、京都を訪れるんなら彼らの作品はぜひ見たいと思うお客さんは多いはず、それをフォローしたい、というのがこの展示の目論見のひとつだったそうである。ほとんどすべて旧作、近作だが、みごとな展示で、たとえば、青木陵子+伊藤存の「9才までの境地~長い夜明けの時期」を構成するアニメーションのひとつは、こんなふうにスポンジに投影されている。
青木陵子+伊藤存はこれまでも粘土や鏡、ぺらぺらの紙など様々な素材に積極的に映像を投影してきたが、スポンジというのは大発見だ。大発見だが、映像は小さい。この人達らしさだ(初出の際には、これらの映像はもっと大きく映し出されていた。その変化に注目するのもこの人達らしさだ)。映像がスポンジに、わずかにしみこんでいるのが横から確認できる。光が、水のようにしみこむその姿は、感動的だ。映像はどこかに投影してやらなければ、自分の姿をこの世に出現させることができない。この小さな「プロジェクションマッピング」は、小さな出力が、大きな感動の発火点になることを、無音のままそっと知らせてくれる。本展はワンフロアのグループ展だが、それぞれの作品を見ていると、このペタンとしたフロアがいかに起伏にとんだ見たことのない想像上のスペースと重なり合っているか、わかってくることだろう。花岡伸宏の彫刻群は、私のような節穴の目の持ち主であれば、さっさと素通りしかねない作品群だが(実際、通り過ぎかけた)、見れば見るほどおもしろい。立ち止まったが最後、なかなかその次へと進めないのだ。落とし穴に落ちたような気分である。すべての作業が「途中」で放棄されたような格好になっており、その「途中」が別の「途中」を引き込んで視線の迷路を作る。迷路だがルートがない。順番や順路などこれらの作品のどこにもないが、単純さもない。タイトルもどれもだいたい「無題」だったり、せっかくタイトルがあったとしても「みえなくなる」などという極めて消極的なものであったりするのだが、何もないのでもない。よく見ると「無題」のあとに(木彫、木棒、折れ、雑誌)というように使用した材料らしきものが書かれてあったりもする。「折れ」ってなんだ?! いや、よく見るとたしかに「折れ」もあるのだ。ぜひこの「折れ」を見に会場へ行ってほしいと思うのだが、会場へ一歩踏み込むと、まだ作品を何も見てないのに、それだけでひとつの感動があるだろう。会場全景の写真をここに載せたいところだが、行ってからのおたのしみに残しておこう。旧作、既発表の作品であっても、作家達と共有された新しくあろうとする意識の高さに気付くと、こっちも、がんばるぞ、負けないぞと思うことができるのである。パラソフィアは友達にめぐまれている。
ところで、順番、順路、ルートといえば、少し前のことだが部屋の掃除をしていたら使用済みのフィルムが出てきて、まったく何を撮ったのかわからないまま現像してみたのだけれども、すると、こんなのが写っていた。いったい何年前のものかサッパリわからないんだが、相当前のものであるのは確かだ。
たぶんどこかの卒業制作展を見に行ったときに撮影したんだと思う。寺の境内が会場のひとつになっていたのだが、石段を歩いてその展示場所に向かおうとすると、こんなふうになっていく。
「便所」が「スタート」になっているところも含蓄を感じさせてすばらしいが、これを卒制にすること自体、かなりのガッツの持ち主だと思う。石段を登る者らを、ギョッとさせながらも、笑えるし、色(だけ)を見れば美しい。不法投棄のようでもあるが不快感がないのだ。極端化するとかえって崇高になってしまうという芸術のフシギさを感じた次第である。これを見たとき、初めて、人の作品を「撮って残しておこう」とか「誰かに見せたい」とか思った。だから、写真に撮ったのである。まあ、撮っただけで現像してなかったので私のいいかげんさがここでも丸わかりなのだが、これまで作品を写真に撮りたいなんて思ったことはなかった。「still moving@KCUA」は撮りたいな、と思ったから撮ったのである。そして、京都市美術館では1枚も撮らなかったということなのである。そうそう、このインスタレーションの作者名がわからないのだが、誰か知っていたらぜひ教えてくだされ。
【特集】PARASOPHIA : 京都国際現代芸術祭 2015(関連記事)
Interview:
河本信治(PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015アーティスティックディレクター)
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▶ 国際芸術祭のあるべき姿(2)
Review: ▶ 浅田 彰「パラパラソフィア——京都国際現代芸術祭2015の傍らで」
▶ 福永 信「第1回京都国際現代芸術祭のために」
▶ 高橋 悟「PARASOPHIA 〜 制度を使ったEngagement 」
Blog: ▶ 石谷治寛「パラソフィア非公式ガイド①―「でも、」を待ちながら」
▶ 石谷治寛「パラソフィア非公式ガイド②―京都のグローカル・エコノミーをたどる」
▶ 石谷治寛「パラソフィア非公式ガイド③―(反)帝国主義のミュージアム〈1F〉」
▶ 石谷治寛「パラソフィア非公式ガイド④―喪失への祈りとガスの記憶〈2F〉」
▶ 小崎哲哉「『私の鶯』と、なぜか鳴かないPARASOPHIA」
▶ 福永 信「パスポートを取り上げろ! パラソフィア・レヴュー補遺」
▶ 小崎哲哉「たったひとりの国際展」
▶ 長澤トマソンの絵日記・Paragraphie & Sophiakyoto Part 1 href=”http://realkyoto.jp/blog/thomasson_sophiagraphie-parakyoto-part-2/”>▶ 長澤トマソンの絵日記・Paragraphie & Sophiakyoto Part 2
外部リンク: ▶ Parasophia Conversations 03:「美術館を超える展覧会は可能か」(2015.03.08)
(アンドレアス・バイティン、ロジャー M. ビュルゲル、高橋悟、河本信治、神谷幸江)
記録映像ハイライトはこちら▶YouTube: ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川
▶ Creators@Kamogawa 座談会『PARASOPHIA クロスレビュー』(2015.03.28)
(クリス・ビアル、ミヒャエル・ハンスマイヤー、ヤン・クロップフライシュ、
ゲジーネ・シュミット、港 千尋、原 久子/司会:小崎哲哉)
記録映像ハイライトはこちら▶YouTube: ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川
▶ 公式サイト:PARASOPHIA : 京都国際現代芸術祭 2015
〈2015年3月7日(土)–5月10日(日)〉
さて、今回の話にもどると、テーマは、パラソフィアを大いに語るというものである。日本側からは、来年のあいちトリエンナーレの芸術監督を務める港千尋氏と、様々な企画展において関西の作家達を送り込んできた原久子氏が参加した。登壇したドイツ人の作家達は、自分からこうしてレジデンスに積極的に応募するような旅人系アーティストであるから、今回のお題は、わりと乗り気であったように思えた。そして事実、なかなか率直な感想が聞こえてきたのである。たとえばこんなふうだ。「京都市美術館の展示で印象に残ったのは、作品よりも、ルートだね。そう、順路のことさ。親切にも、こっちへ行きなさい、あっちへ進みなさいと、ルートがしっかりと決められていて、ぼくなんかには、ちょっと奇妙に思えたよ。なんでもっと自由に見させてくれないんだい? 日本人らしいこまやかな感性のなせるわざなのかもしれないが、なんだかキュウクツな気がしたなぁ。しかも、にもかかわらず、それぞれの作品のつながりは不明瞭なんだぜ? なんでアナ・トーフの作品を見る直前の部屋に、あんな、まっ黒くてでっかい映像インスタレーションがあったんだろ。アナ・トーフの部屋は真っ白なんだよ? 目がちかちかしちゃうじゃないか。田中功起の作品は興味深かったけど、あんな出口に近いスペースにあったら、ぜんぜん時間の余裕がなくて、見られないじゃないか。なんで田中の作品があの場所だったのかミステリアスだ。ルートを敷くぐらいなんだから適切な場所が選ばれたはずだろう? 石橋義正の映像インスタレーションは、順路があってその通りに観客は歩いて映像をたどっていくだろ。気持ちはわかるんだけど、それだと観客に多くを求め過ぎちゃうんじゃないかな。こっち行ってこれ見てくれ、あっち行ってあれ見てよ、と促されるのは、なんというかちょっと問題だとも思うんだよ。ほら、別の場所の、京都文化博物館って言うんだっけ、そこでは森村泰昌の作品があったけど、あれもまた、複数の写真作品をこっちからあっちへと、順番に見ていくことが要請されていたよね? ここでも順番かよ、と、ぼくはイスから落ちそうになったよ。まあ、イスに座ってなくて、立ってたからよかったけどね。森村のインスタレーションは、美しかったとは言えるけど、天井からのスピーカーによる複数の音声、あれは意味不明だったぜ。音声が混じって、ノイズになっちゃってたじゃん? しかも、作品は、そもそもあんな音声解説抜きで理解できるくらいわかりやすい入れ子構造だったじゃないか。いったいあれは誰得なんだろうね?」。思い出しながら書いているうちに、港千尋、小崎哲哉両氏の発言を含め何人かの発言をミックスしたものになってしまった上に、客席の私の心の声も若干混ざってしまったが、およそ大意はこんなものだったと思う。つまり、パラソフィアは、親切設計のような身振りをしながら実際はそうなってない、その親切さは偽装されているというわけである。
たしかにその通りで、私も「入ったらすぐ正面の階段を駆け上がれ!」と、2階から逆走して1階のスタン・ダグラスのマイルス・デイヴィスのライヴで休憩、というのを提案したいが、むろん、そんな「ルート」は観客それぞれがアレンジして行ったり来たりすればいいことだ。パラソフィアの親切設計の偽装は、ルート、順路、並び順なんかよりもむしろ、パスポート制の導入、こっちの方が問題であると私は思う。こないだ「1日じゃ見られないじゃんかブー」という内容の文章を書いたばかりなのだが、浅田彰氏や小崎哲哉氏に、昨日、そのへんもっと明確にするといいよ、と指摘を受けたので、今、ここに補遺として書いておくと、「何度でも見放題のパスポート制は、国際展にはつきものだが、これを基準に展覧会を作られたんじゃたまらないぜ」というのが私の意見である。たしかにパスポート制にすれば、会期中何度も足を運ぶことが可能になる。開館時間に見られなかった映像作品も後日あらためて鑑賞可能になる。それは観客サイドに立っているようでもあり、だから大規模な展覧会ではこのシステムが導入されている。おそらくパラソフィアも、それらの例にならったのだろうと推測する。しかし、「ならった」だけで、何か今回オリジナルな要素が加わった気配はない。なぜなら、パスポート制の弱点は、まったく問われていないからである。パスポート制の弱点とは何か?
それは、「何日も京都にいない者」が排除されていることだ。「1日で見ようと思っている者」を考慮してないことである。「パスポート制を導入してるんだから、こちらには不備はなく、また日をあらためてお越しください、おおきに」と上から目線で言っているように見られても仕方がない。「お得意さん」は全部の映像が見られるが、「いちげんさん」は全部見る資格はない、失せろ、というふうに受け取られてもしょうがない。私は、格差社会のミニチュアを美術館で再現してどうする、と思うのである。ほかもやっているのだからいいじゃないか、は、ダメだぜ。せっかく志高く新しく国際展をやるんだから、新しいことをもっと目指さないといけない。プロセスを重視していた貴君のことだから、「新しさ」を模索することは嫌いじゃないはずだ。どうか、大規模展なのにフシギと「1日で見ることができる」を目指して、ほかの国際展をうらやましがらせてやろうじゃないか。いや、今からでも遅くはない。むしろ、パスポートを取り上げる。パスポートは返納させる。そして、普通のチケットで会期中何度でも出入り自由にする。チケットは大人1800円だが、180円にしてはどうか。市営地下鉄&市バス初乗り運賃よりもはるかに安い。民間の力を見せてやれ。あまりにも安くて不安だ、わしは現行パスポートと同じ6000円で購入したい、という人もいるかもしれない。そういう人には、ふるさと納税的にグッズ付で6万円で売る、とか。もちろんいろいろと面倒なことはあるだろうが、もっと自信を持ってくれ。もっとほかを驚かせてやってくれ。志を高く持つことが、この場所でやることの意味である。大阪とはちがうと言ってやれ。おれたちはこれで勝負をするのだと、ほかをなぞるんじゃなくて、できるだけほかと似ないこと、今がいいわけじゃないが、これまでもよくなかった、だから新しく考えるんだ、と、そう言ってやれ。病気で入院してるから1日しか見られないが、とても楽しかった、と、そんなふうに思ってもらえるような展覧会を、どうか、作ってくれないか。がんばってくれ。どうか胸を張ってくださいな。
さて、ところで、私はタクシーで乗り付けた、と冒頭で書いたが、きっとかっこいいだろうと思ってそう書いたのである。むろん実際に乗ったが、ほんとは歩くつもりだった。このトークの前に、@KCUAへ行って「still moving@KCUA」を見てきたのである。これがなんともすばらしかったのだ(時間を思いのほか余計にくったわけだ)。展示されてるのは、京都の若手、中堅の作家達だ。同館学芸員の徳山拓一氏によれば、伊藤存、青木陵子、金氏徹平などパラソフィアに参加していないが、京都を訪れるんなら彼らの作品はぜひ見たいと思うお客さんは多いはず、それをフォローしたい、というのがこの展示の目論見のひとつだったそうである。ほとんどすべて旧作、近作だが、みごとな展示で、たとえば、青木陵子+伊藤存の「9才までの境地~長い夜明けの時期」を構成するアニメーションのひとつは、こんなふうにスポンジに投影されている。
青木陵子+伊藤存はこれまでも粘土や鏡、ぺらぺらの紙など様々な素材に積極的に映像を投影してきたが、スポンジというのは大発見だ。大発見だが、映像は小さい。この人達らしさだ(初出の際には、これらの映像はもっと大きく映し出されていた。その変化に注目するのもこの人達らしさだ)。映像がスポンジに、わずかにしみこんでいるのが横から確認できる。光が、水のようにしみこむその姿は、感動的だ。映像はどこかに投影してやらなければ、自分の姿をこの世に出現させることができない。この小さな「プロジェクションマッピング」は、小さな出力が、大きな感動の発火点になることを、無音のままそっと知らせてくれる。本展はワンフロアのグループ展だが、それぞれの作品を見ていると、このペタンとしたフロアがいかに起伏にとんだ見たことのない想像上のスペースと重なり合っているか、わかってくることだろう。花岡伸宏の彫刻群は、私のような節穴の目の持ち主であれば、さっさと素通りしかねない作品群だが(実際、通り過ぎかけた)、見れば見るほどおもしろい。立ち止まったが最後、なかなかその次へと進めないのだ。落とし穴に落ちたような気分である。すべての作業が「途中」で放棄されたような格好になっており、その「途中」が別の「途中」を引き込んで視線の迷路を作る。迷路だがルートがない。順番や順路などこれらの作品のどこにもないが、単純さもない。タイトルもどれもだいたい「無題」だったり、せっかくタイトルがあったとしても「みえなくなる」などという極めて消極的なものであったりするのだが、何もないのでもない。よく見ると「無題」のあとに(木彫、木棒、折れ、雑誌)というように使用した材料らしきものが書かれてあったりもする。「折れ」ってなんだ?! いや、よく見るとたしかに「折れ」もあるのだ。ぜひこの「折れ」を見に会場へ行ってほしいと思うのだが、会場へ一歩踏み込むと、まだ作品を何も見てないのに、それだけでひとつの感動があるだろう。会場全景の写真をここに載せたいところだが、行ってからのおたのしみに残しておこう。旧作、既発表の作品であっても、作家達と共有された新しくあろうとする意識の高さに気付くと、こっちも、がんばるぞ、負けないぞと思うことができるのである。パラソフィアは友達にめぐまれている。
ところで、順番、順路、ルートといえば、少し前のことだが部屋の掃除をしていたら使用済みのフィルムが出てきて、まったく何を撮ったのかわからないまま現像してみたのだけれども、すると、こんなのが写っていた。いったい何年前のものかサッパリわからないんだが、相当前のものであるのは確かだ。
たぶんどこかの卒業制作展を見に行ったときに撮影したんだと思う。寺の境内が会場のひとつになっていたのだが、石段を歩いてその展示場所に向かおうとすると、こんなふうになっていく。
「便所」が「スタート」になっているところも含蓄を感じさせてすばらしいが、これを卒制にすること自体、かなりのガッツの持ち主だと思う。石段を登る者らを、ギョッとさせながらも、笑えるし、色(だけ)を見れば美しい。不法投棄のようでもあるが不快感がないのだ。極端化するとかえって崇高になってしまうという芸術のフシギさを感じた次第である。これを見たとき、初めて、人の作品を「撮って残しておこう」とか「誰かに見せたい」とか思った。だから、写真に撮ったのである。まあ、撮っただけで現像してなかったので私のいいかげんさがここでも丸わかりなのだが、これまで作品を写真に撮りたいなんて思ったことはなかった。「still moving@KCUA」は撮りたいな、と思ったから撮ったのである。そして、京都市美術館では1枚も撮らなかったということなのである。そうそう、このインスタレーションの作者名がわからないのだが、誰か知っていたらぜひ教えてくだされ。
【特集】PARASOPHIA : 京都国際現代芸術祭 2015(関連記事)
Interview:
河本信治(PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015アーティスティックディレクター)
▶ 国際芸術祭のあるべき姿(1)
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外部リンク: ▶ Parasophia Conversations 03:「美術館を超える展覧会は可能か」(2015.03.08)
(アンドレアス・バイティン、ロジャー M. ビュルゲル、高橋悟、河本信治、神谷幸江)
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(クリス・ビアル、ミヒャエル・ハンスマイヤー、ヤン・クロップフライシュ、
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〈2015年3月7日(土)–5月10日(日)〉