「芸術論の新たな転回」第4回の公開に寄せて
池田 剛介
2018.05.22
連載を担当しているインタビュー・シリーズ「芸術論の新たな転回」の最新作がアップされました。今回のゲストは哲学者の國分功一郎さん。昨年出版され大きな話題になった『中動態の世界』から、主著の『暇と退屈の倫理学』、さらに最近関心を持たれているという「想像力」の話題まで、充実した内容になっています。
中動態から想像力へ ——國分功一郎『中動態の世界』をめぐって
http://realkyoto.jp/article/inteview-by-ikeda-kosuke04/
基本方針としてこのシリーズでは、即効性よりも長く参照されるに足りる質と密度のあるコンテンツ作りを目指しています。かなり長い分量の、本格的な内容のものになっていると自負していますが、多くの読者に読んでもらえているという手応えを感じています。ゲストの方には長時間、充実したお話を聞かせてもらって感謝しきりです。
人文学と芸術、そして作品とを架橋することがシリーズの大きな狙いで、哲学や批評を切り口としながら芸術の議論につなげたり、コアな芸術研究を広く人文系の議論や実制作の方へと開いたり、といった仕方で、人文学と芸術をめぐる議論のフォーメーション作りをイメージしています。その際、なるだけ多くの具体的な「作品」を取り上げたいと思っていますが、十分にやれてるとは言えないでしょう。
昨年2017年にスタートし今回で4回目。一年間続けてきて、ようやくシリーズ感が出てきたなと。というのも、それぞれの回は単体として読めるようになっていますが、これまでの議論を意識しながら構成してもいるからです。なので今回関心を持たれた方には、ぜひこれまでの1-3回にもアクセスしてほしいと思います。
それでもなお、レトリックを――星野太『崇高の修辞学』をめぐって
http://realkyoto.jp/article/inteview-by-ikeda-kosuke01_1/
『中動態の世界』における、古典ギリシャ語に遡りながらの文法への着目は、修辞の問題に注目する星野太さんの回との関連が深く、また美や快への注目という点でも、これまでの崇高概念を相対化する星野さんの議論と合わせて読むと面白いかと思います。
洒落と仮固定の制作論――千葉雅也『勉強の哲学』をめぐって
http://realkyoto.jp/article/inteview-by-ikeda-kosuke02_1/
また「仮置きの主体」というところは、第2回目の千葉雅也さんの回での「仮固定としての制作」という話題と繋がりますし、後半の想像力の話題については、千葉さんの言う「準-他者」、つまり他者性をグラデーションとして考える議論と関連づけると面白そうな内容です(無人島にAIと一緒にいる状況など……)。
デュシャンはどのように受容された(される)か――平芳幸浩『マルセル・デュシャンとアメリカ』をめぐって
http://realkyoto.jp/article/inteview-by-ikeda-kosuke03_1/
さらに能動/受動図式とは異なるありようとして、デュシャン作品の働きや芸術係数といったキーワードを考えていくことも可能かと思いますし、平芳さんが研究する作品の受容のありようは、國分さんがスピノザを通じて言っている、内的プロセスを強調する個体性の問題と関連づけられるかと思います。
こうして徐々に議論のフィールドを広げつつ遠くまでパスをつなげていくことができるのは、シリーズとして展開している良い点かと思います。ぜひ過去のものも合わせて読んでもらえれば、意外なところに関心が広がり、また様々なヒントを見つかるのではないかと思います。
それでは、ぜひお楽しみください。
中動態から想像力へ ——國分功一郎『中動態の世界』をめぐって
http://realkyoto.jp/article/inteview-by-ikeda-kosuke04/
基本方針としてこのシリーズでは、即効性よりも長く参照されるに足りる質と密度のあるコンテンツ作りを目指しています。かなり長い分量の、本格的な内容のものになっていると自負していますが、多くの読者に読んでもらえているという手応えを感じています。ゲストの方には長時間、充実したお話を聞かせてもらって感謝しきりです。
人文学と芸術、そして作品とを架橋することがシリーズの大きな狙いで、哲学や批評を切り口としながら芸術の議論につなげたり、コアな芸術研究を広く人文系の議論や実制作の方へと開いたり、といった仕方で、人文学と芸術をめぐる議論のフォーメーション作りをイメージしています。その際、なるだけ多くの具体的な「作品」を取り上げたいと思っていますが、十分にやれてるとは言えないでしょう。
昨年2017年にスタートし今回で4回目。一年間続けてきて、ようやくシリーズ感が出てきたなと。というのも、それぞれの回は単体として読めるようになっていますが、これまでの議論を意識しながら構成してもいるからです。なので今回関心を持たれた方には、ぜひこれまでの1-3回にもアクセスしてほしいと思います。
それでもなお、レトリックを――星野太『崇高の修辞学』をめぐって
http://realkyoto.jp/article/inteview-by-ikeda-kosuke01_1/
『中動態の世界』における、古典ギリシャ語に遡りながらの文法への着目は、修辞の問題に注目する星野太さんの回との関連が深く、また美や快への注目という点でも、これまでの崇高概念を相対化する星野さんの議論と合わせて読むと面白いかと思います。
洒落と仮固定の制作論――千葉雅也『勉強の哲学』をめぐって
http://realkyoto.jp/article/inteview-by-ikeda-kosuke02_1/
また「仮置きの主体」というところは、第2回目の千葉雅也さんの回での「仮固定としての制作」という話題と繋がりますし、後半の想像力の話題については、千葉さんの言う「準-他者」、つまり他者性をグラデーションとして考える議論と関連づけると面白そうな内容です(無人島にAIと一緒にいる状況など……)。
デュシャンはどのように受容された(される)か――平芳幸浩『マルセル・デュシャンとアメリカ』をめぐって
http://realkyoto.jp/article/inteview-by-ikeda-kosuke03_1/
さらに能動/受動図式とは異なるありようとして、デュシャン作品の働きや芸術係数といったキーワードを考えていくことも可能かと思いますし、平芳さんが研究する作品の受容のありようは、國分さんがスピノザを通じて言っている、内的プロセスを強調する個体性の問題と関連づけられるかと思います。
こうして徐々に議論のフィールドを広げつつ遠くまでパスをつなげていくことができるのは、シリーズとして展開している良い点かと思います。ぜひ過去のものも合わせて読んでもらえれば、意外なところに関心が広がり、また様々なヒントを見つかるのではないかと思います。
それでは、ぜひお楽しみください。