第1回京都国際現代芸術祭のために
文:福永 信
2015.03.25
福永信
疑問点はひとつだけだ。
どの大規模な展覧会にも言えることかもしれない。関係者が共有する悩みのタネなのかもしれない。また、観客のだれもが、あらかじめわかっていることであるような気もする。だれもがすでにわかっているということなら、わざわざこうして書く必要もないが、人は、キズ口に触れられると痛がるものである。人のキズ口に積極的に触れるのが物書きの仕事であり、同時に読者の仕事でもある。では、京都市内に出現している『PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015』なる珍妙な名称の国際美術展覧会の小さなキズ口、たったひとつの疑問点とは何か?
それは、ヒョウシヌケするほど簡単なもので、イスから落ちる者もいるだろうが、「1日かけてもすべてを見ることができない」というものである。映像系のアーティストが世界各国から作品を寄せれば、人が、1日でそれらを見るなんてことがムリなのは承知の助だ。私は、京都市美術館に9時30分に入館して、外に出たのは、閉館時間の17時であった。館内の全部の作品を最初から最後まで見終えることはできなかった。京都市美術館で展示された映像系の作品を集計するとこうなる。ウィリアム・ケントリッジ7分1秒、アン・リスレゴー10分34秒、6分5秒、5分42秒、スタン・ダグラス6時間1分、ヘトヴィヒ・フーベン20分、20分、アリン・ルジャーン32分27秒、37分52秒、ドミニク・ゴンザレス=フォルステル3分58秒(ガイドブックでは5分)、ヨースト・コナイン31分10秒、28分37秒、41分42秒、2分3秒、20分24秒、王虹凱(ワン・ホンカイ)39分17秒および複数の映像・音声資料、アフメド・マータル20分、ラグナル・キャルタンソン6時間9分35秒、ハルーン・ファロッキ43分。計約18時間以上。京都市美術館は9時開館17時閉館だから、与えられた鑑賞時間は8時間である。観客は、半分以上の映像をあらかじめ見ることができないことになる。もっとも、観客はこのような国際展において、そもそも全部の映像を見ようと思ってはないかもしれない。しかし例えば映画館が、半分しか上映しないで正規の料金を求めたら、それは詐欺である。では、映像のすべてがあらかじめ見られないことが明らかな本展の「主会場」のひとつである京都市美術館の展示は、詐欺にならないか?
今、上映時間のみ数え上げたのは、映像をストレートに上映するタイプの作品だけだ。そのほか映像インスタレーションとして構成された作品群が館内には、ある。これら一群の映像インスタレーション系作品を合わせると、京都市美術館での映像作品上映時間は上記の18時間からさらに上乗せされる。もちろん、非映像作品もあるわけだから、映像ばかりに目を奪われているわけにもいかない。観客はどこかで腰を上げないといけない。「まあ、この作品は、このへんまでで、いいかな」などと、モヤモヤした気持ちで、席を立つだろう。あるいは、素通りすることになるだろう。観客は、「あまりおもしろくなさそうだから」と自分に言い聞かせることだろう。これではまるで、わざわざ観客に「つまらない」と言ってもらうために展示しているようではないか。あるいは、すべては観客の自己責任なのか?
その問題への解決策を暗黙の裡に、提示している巧みな映像制作者もいる。美術館1階の『ルアンダ=キンシャサ』(2013)のスタン・ダグラスと、2階で会場出口にほど近い『一時的なスタディ:ワークショップ♯1「1946年~52年占領期と1970年人間と物質』(2015)の田中功起だ。この2人は、事前に示し合わせたのではないかと思うほど、映像鑑賞を途中で切り上げてモヤモヤしているだろう観客へのケアを行っている。スタン・ダグラスは、6時間1分というバカげた上映時間をかかげてマイルス・デイヴィスの『On the Corner』の再現ライブの様子を上映している。このアルバムはそもそも1時間くらいのものである。だから、6時間というのは、曲ごとの組み合わせが変化しているだけだ(6時間観察したわけではないので確実なことは言えないが)。1時間くらいその場にいれば、観客は、同じ映像が混じっていることに気付くだろう。そして、その「同じ映像」が席を立つキッカケを作ってくれるだろう(しかし、この映像=音楽の魅力によってなかなかその場を離れられないだろうが。キュートな女性ドラマーの顔芸に惚れてしまうはずだ)。
田中功起は、自分の今回のインスタレーションのすべての映像作品を順次ウェブ上で見ることができるようにしている。細かいところはあとで見てくれ、というわけだ。その場で映像を見ることだけに、どうか、情熱を傾けないでくれ。出口付近でもう時間もなく駆け足であったとしても、映像はその場でざっと見るくらいでいいから、どうか、空間全体を読み取ってくれ、展示物だけ眺めてみれば、貧しく見えるかもしれないが、それは錯覚だから。「占領」の一言からも、そこには過剰なほど現代的な意味が「もうかんべんしてくれ」と思うほど湧き出てくるはずだ。なぜなら近年ほど「占領」が話題になっている数年もないではないか。読み取られることを待っている情報、見えざる言葉が、この会場には充満している。積極的読解主義を田中功起作品は提唱している。
「国際展の巨大化という世界的潮流の中で、10,000㎡以上の展示スペースを確保しながらあえて36組[引用者注:この文章は第4回記者会見資料2015.1.30より。最終的には40組にのぼる]という規模で参加作家への十分なスペースの提供と細やかな支援を重視した、大き過ぎない、京都という都市にとっての適正規模となるでしょう」(河本信治)と誇るヒマがあれば、映像展示に関してアイデアをもっと練るべきだったし、作家に対しても、「もうちょっと短くしてくれ」的な編集感覚を主催者は観客のために「発揮」すべきだった(それができなければこれまでの国内の国際展をなぞるだけだ)。どうか、がんばってくれ。
本展で白眉と言えるのは、「主会場」の京都市美術館でも京都文化博物館でもなく、無料開放されている市内各所に点在する展示スペースである。第2回以降も、これは発展させるべきすばらしい展示空間ばかりだ。とくに京都芸術センターのアーノウト・ミックの映像インスタレーション『異言』(2013)と、鴨川デルタのスーザン・フィリップスのサウンドアート『三つの歌』(2015)は、これは、だれもが行くべきである。京都芸術センターの2階講堂のアーノウト・ミック作品は、ほとんどサイレントの喜劇映画のようだ。実際、サイレントだ。そして、講堂のような場所で行われる現代的なこの喜劇は、観客の心の中にさかんに言葉が湧き出るような装置でもある。音声がないことが、あり得ないおかしみを引き出してくる。
スーザン・フィリップス作品が展示されている鴨川デルタに行くと、そこはふだんの休日と変わらなかった。子供がいて、大人がいた。天気にめぐまれて、裸足で川につかったり、飛び石をわたって行き来したりしていた。これでもうこの場所は満たされているのだから、「アート」が介入する余地なんかないじゃないか、と思ったそのとき、フシギな歌声が、どこからともなく、聞こえてくる。
だれも聞いてない。けれども、きっと聞こえている。歌声は「アート」として強引に介入することはなく、まるで友達のように、そこにまじっていた。歌声は、裸足で川につかったり、おそるおそる飛び石をわたったりしているように思えた。歌声は、膝までスボンをまくりあげて、靴をぬいで、子供達のあとについていって、飛び石をピョコピョコと向こう岸までわたっていったように思えた。歌声は、こんにちは、と言ったように思えた。そして、子供達とそのまま友達になってしまったように思えた。私の錯覚だろうか。気付けば歌声はもうやんでいたのだから、私のたんなる思い込み、妄想に違いないかもしれないが、スーザン・フィリップスのこの作品は、そんな妄想を許すように考えられていると信じられた。歌声は、作品を通して、やあ、こんちは、って、子供や大人と、その場で出会って一緒に、その時間を過ごしていたと私は思う。そこには、詐欺とかなんとかいうイチャモンはどこにも入る余地はない。友達になるのに、ソンもトクもないからだ。
【特集】PARASOPHIA : 京都国際現代芸術祭 2015(関連記事)
Interview:
河本信治(PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015アーティスティックディレクター)
▶ 国際芸術祭のあるべき姿(1)
▶ 国際芸術祭のあるべき姿(2)
Review: ▶ 浅田 彰「パラパラソフィア——京都国際現代芸術祭2015の傍らで」
▶ 福永 信「第1回京都国際現代芸術祭のために」
▶ 高橋 悟「PARASOPHIA 〜 制度を使ったEngagement 」
Blog: ▶ 石谷治寛「パラソフィア非公式ガイド①―「でも、」を待ちながら」
▶ 石谷治寛「パラソフィア非公式ガイド②―京都のグローカル・エコノミーをたどる」
▶ 石谷治寛「パラソフィア非公式ガイド③―(反)帝国主義のミュージアム〈1F〉」
▶ 石谷治寛「パラソフィア非公式ガイド④―喪失への祈りとガスの記憶〈2F〉」
▶ 小崎哲哉「『私の鶯』と、なぜか鳴かないPARASOPHIA」
▶ 福永 信「パスポートを取り上げろ! パラソフィア・レヴュー補遺」
▶ 小崎哲哉「たったひとりの国際展」
▶ 長澤トマソンの絵日記・Paragraphie & Sophiakyoto Part 1 ▶ 長澤トマソンの絵日記・Paragraphie & Sophiakyoto Part 2
外部リンク: ▶ Parasophia Conversations 03:「美術館を超える展覧会は可能か」(2015.03.08)
(アンドレアス・バイティン、ロジャー M. ビュルゲル、高橋悟、河本信治、神谷幸江)
記録映像ハイライトはこちら▶YouTube: ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川
▶ Creators@Kamogawa 座談会『PARASOPHIA クロスレビュー』(2015.03.28)
(クリス・ビアル、ミヒャエル・ハンスマイヤー、ヤン・クロップフライシュ、
ゲジーネ・シュミット、港 千尋、原 久子/司会:小崎哲哉)
記録映像ハイライトはこちら▶YouTube: ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川
▶ 公式サイト:PARASOPHIA : 京都国際現代芸術祭 2015
〈2015年3月7日(土)–5月10日(日)〉
疑問点はひとつだけだ。
どの大規模な展覧会にも言えることかもしれない。関係者が共有する悩みのタネなのかもしれない。また、観客のだれもが、あらかじめわかっていることであるような気もする。だれもがすでにわかっているということなら、わざわざこうして書く必要もないが、人は、キズ口に触れられると痛がるものである。人のキズ口に積極的に触れるのが物書きの仕事であり、同時に読者の仕事でもある。では、京都市内に出現している『PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015』なる珍妙な名称の国際美術展覧会の小さなキズ口、たったひとつの疑問点とは何か?
それは、ヒョウシヌケするほど簡単なもので、イスから落ちる者もいるだろうが、「1日かけてもすべてを見ることができない」というものである。映像系のアーティストが世界各国から作品を寄せれば、人が、1日でそれらを見るなんてことがムリなのは承知の助だ。私は、京都市美術館に9時30分に入館して、外に出たのは、閉館時間の17時であった。館内の全部の作品を最初から最後まで見終えることはできなかった。京都市美術館で展示された映像系の作品を集計するとこうなる。ウィリアム・ケントリッジ7分1秒、アン・リスレゴー10分34秒、6分5秒、5分42秒、スタン・ダグラス6時間1分、ヘトヴィヒ・フーベン20分、20分、アリン・ルジャーン32分27秒、37分52秒、ドミニク・ゴンザレス=フォルステル3分58秒(ガイドブックでは5分)、ヨースト・コナイン31分10秒、28分37秒、41分42秒、2分3秒、20分24秒、王虹凱(ワン・ホンカイ)39分17秒および複数の映像・音声資料、アフメド・マータル20分、ラグナル・キャルタンソン6時間9分35秒、ハルーン・ファロッキ43分。計約18時間以上。京都市美術館は9時開館17時閉館だから、与えられた鑑賞時間は8時間である。観客は、半分以上の映像をあらかじめ見ることができないことになる。もっとも、観客はこのような国際展において、そもそも全部の映像を見ようと思ってはないかもしれない。しかし例えば映画館が、半分しか上映しないで正規の料金を求めたら、それは詐欺である。では、映像のすべてがあらかじめ見られないことが明らかな本展の「主会場」のひとつである京都市美術館の展示は、詐欺にならないか?
今、上映時間のみ数え上げたのは、映像をストレートに上映するタイプの作品だけだ。そのほか映像インスタレーションとして構成された作品群が館内には、ある。これら一群の映像インスタレーション系作品を合わせると、京都市美術館での映像作品上映時間は上記の18時間からさらに上乗せされる。もちろん、非映像作品もあるわけだから、映像ばかりに目を奪われているわけにもいかない。観客はどこかで腰を上げないといけない。「まあ、この作品は、このへんまでで、いいかな」などと、モヤモヤした気持ちで、席を立つだろう。あるいは、素通りすることになるだろう。観客は、「あまりおもしろくなさそうだから」と自分に言い聞かせることだろう。これではまるで、わざわざ観客に「つまらない」と言ってもらうために展示しているようではないか。あるいは、すべては観客の自己責任なのか?
その問題への解決策を暗黙の裡に、提示している巧みな映像制作者もいる。美術館1階の『ルアンダ=キンシャサ』(2013)のスタン・ダグラスと、2階で会場出口にほど近い『一時的なスタディ:ワークショップ♯1「1946年~52年占領期と1970年人間と物質』(2015)の田中功起だ。この2人は、事前に示し合わせたのではないかと思うほど、映像鑑賞を途中で切り上げてモヤモヤしているだろう観客へのケアを行っている。スタン・ダグラスは、6時間1分というバカげた上映時間をかかげてマイルス・デイヴィスの『On the Corner』の再現ライブの様子を上映している。このアルバムはそもそも1時間くらいのものである。だから、6時間というのは、曲ごとの組み合わせが変化しているだけだ(6時間観察したわけではないので確実なことは言えないが)。1時間くらいその場にいれば、観客は、同じ映像が混じっていることに気付くだろう。そして、その「同じ映像」が席を立つキッカケを作ってくれるだろう(しかし、この映像=音楽の魅力によってなかなかその場を離れられないだろうが。キュートな女性ドラマーの顔芸に惚れてしまうはずだ)。
田中功起は、自分の今回のインスタレーションのすべての映像作品を順次ウェブ上で見ることができるようにしている。細かいところはあとで見てくれ、というわけだ。その場で映像を見ることだけに、どうか、情熱を傾けないでくれ。出口付近でもう時間もなく駆け足であったとしても、映像はその場でざっと見るくらいでいいから、どうか、空間全体を読み取ってくれ、展示物だけ眺めてみれば、貧しく見えるかもしれないが、それは錯覚だから。「占領」の一言からも、そこには過剰なほど現代的な意味が「もうかんべんしてくれ」と思うほど湧き出てくるはずだ。なぜなら近年ほど「占領」が話題になっている数年もないではないか。読み取られることを待っている情報、見えざる言葉が、この会場には充満している。積極的読解主義を田中功起作品は提唱している。
「国際展の巨大化という世界的潮流の中で、10,000㎡以上の展示スペースを確保しながらあえて36組[引用者注:この文章は第4回記者会見資料2015.1.30より。最終的には40組にのぼる]という規模で参加作家への十分なスペースの提供と細やかな支援を重視した、大き過ぎない、京都という都市にとっての適正規模となるでしょう」(河本信治)と誇るヒマがあれば、映像展示に関してアイデアをもっと練るべきだったし、作家に対しても、「もうちょっと短くしてくれ」的な編集感覚を主催者は観客のために「発揮」すべきだった(それができなければこれまでの国内の国際展をなぞるだけだ)。どうか、がんばってくれ。
本展で白眉と言えるのは、「主会場」の京都市美術館でも京都文化博物館でもなく、無料開放されている市内各所に点在する展示スペースである。第2回以降も、これは発展させるべきすばらしい展示空間ばかりだ。とくに京都芸術センターのアーノウト・ミックの映像インスタレーション『異言』(2013)と、鴨川デルタのスーザン・フィリップスのサウンドアート『三つの歌』(2015)は、これは、だれもが行くべきである。京都芸術センターの2階講堂のアーノウト・ミック作品は、ほとんどサイレントの喜劇映画のようだ。実際、サイレントだ。そして、講堂のような場所で行われる現代的なこの喜劇は、観客の心の中にさかんに言葉が湧き出るような装置でもある。音声がないことが、あり得ないおかしみを引き出してくる。
スーザン・フィリップス作品が展示されている鴨川デルタに行くと、そこはふだんの休日と変わらなかった。子供がいて、大人がいた。天気にめぐまれて、裸足で川につかったり、飛び石をわたって行き来したりしていた。これでもうこの場所は満たされているのだから、「アート」が介入する余地なんかないじゃないか、と思ったそのとき、フシギな歌声が、どこからともなく、聞こえてくる。
だれも聞いてない。けれども、きっと聞こえている。歌声は「アート」として強引に介入することはなく、まるで友達のように、そこにまじっていた。歌声は、裸足で川につかったり、おそるおそる飛び石をわたったりしているように思えた。歌声は、膝までスボンをまくりあげて、靴をぬいで、子供達のあとについていって、飛び石をピョコピョコと向こう岸までわたっていったように思えた。歌声は、こんにちは、と言ったように思えた。そして、子供達とそのまま友達になってしまったように思えた。私の錯覚だろうか。気付けば歌声はもうやんでいたのだから、私のたんなる思い込み、妄想に違いないかもしれないが、スーザン・フィリップスのこの作品は、そんな妄想を許すように考えられていると信じられた。歌声は、作品を通して、やあ、こんちは、って、子供や大人と、その場で出会って一緒に、その時間を過ごしていたと私は思う。そこには、詐欺とかなんとかいうイチャモンはどこにも入る余地はない。友達になるのに、ソンもトクもないからだ。
(ふくなが・しん 小説家)
(2015年3月27日)
【特集】PARASOPHIA : 京都国際現代芸術祭 2015(関連記事)
Interview:
河本信治(PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015アーティスティックディレクター)
▶ 国際芸術祭のあるべき姿(1)
▶ 国際芸術祭のあるべき姿(2)
Review: ▶ 浅田 彰「パラパラソフィア——京都国際現代芸術祭2015の傍らで」
▶ 福永 信「第1回京都国際現代芸術祭のために」
▶ 高橋 悟「PARASOPHIA 〜 制度を使ったEngagement 」
Blog: ▶ 石谷治寛「パラソフィア非公式ガイド①―「でも、」を待ちながら」
▶ 石谷治寛「パラソフィア非公式ガイド②―京都のグローカル・エコノミーをたどる」
▶ 石谷治寛「パラソフィア非公式ガイド③―(反)帝国主義のミュージアム〈1F〉」
▶ 石谷治寛「パラソフィア非公式ガイド④―喪失への祈りとガスの記憶〈2F〉」
▶ 小崎哲哉「『私の鶯』と、なぜか鳴かないPARASOPHIA」
▶ 福永 信「パスポートを取り上げろ! パラソフィア・レヴュー補遺」
▶ 小崎哲哉「たったひとりの国際展」
▶ 長澤トマソンの絵日記・Paragraphie & Sophiakyoto Part 1 ▶ 長澤トマソンの絵日記・Paragraphie & Sophiakyoto Part 2
外部リンク: ▶ Parasophia Conversations 03:「美術館を超える展覧会は可能か」(2015.03.08)
(アンドレアス・バイティン、ロジャー M. ビュルゲル、高橋悟、河本信治、神谷幸江)
記録映像ハイライトはこちら▶YouTube: ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川
▶ Creators@Kamogawa 座談会『PARASOPHIA クロスレビュー』(2015.03.28)
(クリス・ビアル、ミヒャエル・ハンスマイヤー、ヤン・クロップフライシュ、
ゲジーネ・シュミット、港 千尋、原 久子/司会:小崎哲哉)
記録映像ハイライトはこちら▶YouTube: ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川
▶ 公式サイト:PARASOPHIA : 京都国際現代芸術祭 2015
〈2015年3月7日(土)–5月10日(日)〉