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ICA Kyoto TALK 060
どうやってアーティストになったか
ゲスト:島袋道浩

2026.03.02
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ICA Kyoto TALK 060: 会場風景
Photo: Oto Hanada
会場として京都芸術大学大学院 芸術専攻 芸術実践領域の新スタジオであり、
アーティスト育成のための重要なプラットフォームとして機能を始めた「CAPS(Contemporary Art Practice Studio)」で開催された。

1990年代初頭より国内外の多くの場所を旅し、その場所やそこに生きる人々の生活や文化に関係したサイトスペシフィックな作品や新しいコミュニケーションのあり方に関する映像、彫刻、インスタレーションなど、さまざまな形態の作品を制作してきた島袋道浩。海外の美術館での個展や国際展への招聘も多く世界的に活躍する島袋は、どのようにしてアーティストとなり、現在のような活躍をするようになったのか。今回のトークは、島袋の学生時代の経験や、これまでのさまざまな出会いと実践を紐解きながら、その制作スタンスや目線を共有する機会となった。本レポートでは、島袋のこれまでの経験とともに、美術や制作との向き合い方や態度が伝わる言葉と、特にQ&Aで語られた内容を紹介する。以下は、2025年10月21日に行われたトークの抜粋である。

構成:小山冴子


京都芸術大学内にあるスタジオでの開催ということもあり、学生を中心に多くの参加者が集まった今回。モデレーターの堤拓也は、「どうやってアーティストになったかという、普段はなかなか聞く機会がない話を、こういう場だからこそ、ざっくばらんに聞いていける機会としたい」と学生たちに投げかけた。トークは島袋の終始穏やかな語りの中、モデレーターの堤によるコメントや質問を引き受けつつ、ゆっくりと進んだ。


美術に関わるきっかけ――夢は「世界中に友達をつくる」こと

小学生の頃の文集に、将来の夢は「世界中に友達をつくる」と書いたという島袋。ものをつくる仕事をしたいと考えはじめたのは、中学生の頃のことだった。本を読むことが好きで、中学生が読まないような難しい本まで探してきては読んでいたという島袋は、はじめは文章を書く仕事をしたいと考えていたという。

「書くといっても小説家や評論家というよりかは、詩人になりたいと思っていたんです。」

ただ、自分が書いた日本語の文章を世界に届けるためには、まず言葉を翻訳しなければならないし、そうなるとかなり時間がかかる。世界中に友達をつくるためには、言葉だけでは限界があるのではないか。そう考える中で出会ったのが、ビジュアルアートだった。特に、詩や絵画が等価に扱われるシュルレアリズムの表現や、コンセプチュアル・アートに惹かれた島袋は、自分もそういう表現がしたいと考えるようになっていった。

しかし、当時日本で美術を勉強するには、まずデッサンを学んで美大に入るというルートが一般的で、インターネットもない時代では、他のルートを見つけようにも、情報がなかなか手に入らない。「これは外国に行くしかないかもしれない」と考えた島袋は、大阪芸術大学附属大阪美術専門学校にアメリカの大学へ編入可能な制度があることをたまたま知り、進学した。入学してすぐに、担当教師であった日下部一司に「自分はデッサンなんかやりたくない。マルセル・デュシャンが大好きだし、荒川修作や河原温みたいな表現に興味があります。その線で行くので、よろしくお願いします!」と宣言したのだという。その言葉を聞いた日下部は「わかった」と言い、その後日本にも赤瀬川原平や宮武外骨、ハイレッドセンターやモノ派といった作家や活動があることを教えてくれ、学びを広げることになった。


「大事なことは、最初から「こうしたい」と言って一生懸命やっていると、助けてくれる人がいるということですね。」


その後、成績優秀生として選ばれ、サンフランシスコ・アート・インスティテュート(San Francisco Art Institute、以下SFAI)に編入することになった島袋は、版画学科にいたにも関わらず、パフォーマンス・アンド・ビデオ学科で教えていたキューバ人のアーティスト、トニー・ラバット(Tony Labat)の授業に出入りするようになる。校舎の裏の隠れ部屋のような場所で実施されていた授業には、さまざまな国からの学生が集まり、自身のパフォーマンスやビデオを発表し、議論するということが延々と行われていた。今となっては大学でも許されないような過激なパフォーマンスも多くあり、当時あまり英語が得意ではなかった島袋も、その様子を写真で記録し他の生徒たちに見せることで、ディスカッションに加わり、仲間に入っていったのだという。ここでの学びや作品を介したコミュニケーションが、その後の島袋の活動の原点となったのだろう。


片眉だけの旅――写真1枚で残す潔さ

「こんなところで学んだものだから」最初期の作品がこの形になったのだと島袋が紹介したのが、自分の片方の眉毛をロンドンの地下鉄の中で剃り、その姿でヨーロッパ中を旅するという作品《片方の眉毛を剃ってヨーロッパを旅した》(1991年)だ。
SAFI在学中にインディペンデント・スタディ・プログラムとして、ヨーロッパへ半年間留学をした島袋は、ロンドンからユーロレイルパスを使ってヨーロッパ中の美術館を訪ねる旅をした。その際、ロンドンの地下鉄の中で自分の片方の眉毛を剃り、そのまま片眉だけの状態で旅をしたのだという。

眉毛が片方だけしかないとなると、やはりさまざまな人に話しかけられることになる。イタリアでは、「お前、どうして片っぽしか眉毛が無いんだ?」と話しかけられ、その流れで家に招かれて美味しいものをご馳走になった。また、電車の中で会ったオーストリアのダンサーに、自分のスペースで展覧会をしないかと誘われたこともあった。他にもさまざまなエピソードと、面白い出会いがたくさんあったのだという。しかし記録として残されたのは、この一枚の写真だけ。

《片方の眉毛を剃ってヨーロッパを旅した》1991年

初期作品として、展覧会などで紹介することも多いこの作品は、旅の中でのエピソードを語ったテキストとともに展示することが多いという。とてもシンプルな作品だが、1枚の写真だからこそ、さまざまなイメージができるのだと島袋は語る。


「ちゃんとドキュメントがないからいろんなことが想像できて。それがなんだか良かったりするんですよ。計算したわけじゃないんですけど……。」


モデレーターの堤は、この作品の写真のほか、暖かい春の日にサンタクロースの仮装をして海岸に佇んでいる島袋の写真作品《南半球のクリスマス》(1994年)や、95年の阪神淡路大震災のあと、友人宅の屋根の上に掲げた看板を撮影した《人間性回復のチャンス》(1995年)などの作品にも触れながら、「ある出来事に対して1枚しか写真を残さないという島袋さんの潔さが、時を経て、今の時代にフィットしているのではないか」と語る。現代では、撮影機材も安価になり、さまざまな形でドキュメントを記録することができるようになった。ただ、それが逆にインスタレーションの方向性自体を狭めることになっているのではないかというのだ。写真で記録し、映像を撮り、さらにその場の素材もあわせて複合的なインスタレーションをつくることによって、作家の体験自体を再体験させようとする方向性の作品が多くなっており、それは逆に、観客の想像力を狭めてしまうのではないか。

《人間性回復のチャンス》1995年

このコメントに対して島袋は、当時は今のように、携帯電話で簡単に映像を撮れるような時代ではなく、カメラやフィルムも高価だったため、貧乏な若手アーティストはフィルムを使ってたくさんの写真を撮るということができなかったと答えた。使える道具や手法が制限される状況にあったということだ。しかし島袋は続ける。


「今は何でもできるから、何でもいっぱいやっちゃうじゃないですか。でも、何でもできるけど、何でもやっちゃダメなんですよね、本当は。何をやってもいいんだけど、何をやってもいいわけじゃない。変な言い方ですけど。今、大切なのはそう言うことだと思うんですよね。」

島袋道浩さん
Photo: Oto Hanada


美術館での展覧会―さまざまな出会いをつくること

日本に戻った島袋は、23歳のときにはじめて美術館での展覧会を経験した。名古屋市美術館で開催された3日間の展覧会「コンニチハ : konnichiwa」では、偶然の出会いからの作品も生まれた。まずヨーロッパの片方眉毛の旅で偶然知り合った吉本のお笑い芸人の人にも来てもらい、展覧会の来場者に喋りかけてもらう作品、見に来た人を巻き込んでいく出会いの場として展開した。また、会場に設置されていたジョナサン・ボロフスキーの彫刻《ハンマリングマン》(1982年)が会場外に動かせないと知り、ゴリラの餌でできたゴリラの地上絵のインスタレーションの中に取り込むことにした。さらに、美術館前の公園に住んでいたホームレス状態にある方との会話から、その方が美術館に足を踏み入れたことがないことを知り、美術館の一番近くに住んでいるのだから展覧会に来てほしいと毎日口説きに行き、最終的にはその人の前で作品をつくってしまったのだという。

会場風景「コンニチハ : konnichiwa」名古屋市美術館

「やっぱり僕にとって大事なキーワードのひとつは「出会い」ってことなんです。この展覧会で、ボロフスキーと自分のつくったものが出会っているという状態は悪くないなって思ったし。(ゴリラの一ヶ月分の餌でできている)インスタレーションは、ゴリラに食べてもらうところまでが作品なんですが、それも、たまたま金沢の動物園の人と知り合ったから、ゴリラのところに全部を持っていって食べてもらうとこまでをやることになりました。」

会場風景「コンニチハ : konnichiwa」名古屋市美術館


島袋は、偶然の出会いやその場の状況に一つひとつ向き合い、そこからまた新しい出会いや、作品をつくっていく。まだ美術だけでは食べていけなかった20代、運送業者でのアルバイトでダンボール箱の仕分けをしていた経験から、箱が話しかけてくる作品《箱に生まれて》(2001年)が生まれた。魚とじゃがいもが水の中をふわりふわりと共に泳いでいく映像作品《シマブクのフィッシュ・アンド・チップス》(2006年)も、リバプールの街中に「FISH & CHIPS」という看板が溢れているのを見て、自分なりのフィッシュ・アンド・チップスをつくろうと、じゃがいもと一緒に海に潜って魚に会いにいった作品だ。島袋はこの撮影のために、ダイビングのライセンスを取ったそうだ。

《シマブクのフィッシュ・アンド・チップス》(2006年)

「できることをやるんじゃなくって、プロジェクトをやることになってから、できることが増えるんです。この作品の場合は、じゃがいもと泳ぐためにダイビングのライセンスを取らないといけないなと思ったんです。それまではあまり分かっていなかった事でも、やってみたらできるようになる。できることをやるんじゃない、できないことができるようになる、そのための作品なんですよね。」


その後、いくつかの映像作品や、作品制作時のドキュメントなどを見ながらトークは進んだ。終盤の学生からの質疑応答でも、島袋らしい応答がなされた。


質疑応答

Q:島袋さんの作品には、偶然としか言いようがないようなことが、映り込んでいる印象があります。それは、どのように呼び込まれているのでしょうか。

「やってみたらいろんなことが起こるってことだと思います。例えばじゃがいもと一緒に泳ぐなんて、みんなやらないじゃないですか。とりあえずやることによって、何かが起こる。だから、考えるより何より、思いついたらとりあえずやってみる、それが基本だと思っています。やると何かがおこります。その中で大切なのは、楽しそうにやるってことですよね。」


Q:島袋さんがこれまで出会ってきたアーティストとの関係が、今のご自身の活動にも繋がっているのだと思います。お友達づくりの秘訣はありますか。

「よく、「人間が好きなんですか?」って聞かれたりするけど、僕は面白い人が好きなんです。そして面白い人は、面白い人が好き。こちらが面白くないと相手をしてくれないんです。だから自分も面白いことをやろうって思っているところはあります。
僕の若い頃、80年代や90年代というのは、ヨーロッパのアーティストには「アジア人にはコンテンポラリーアートなんかできないでしょ、教えてあげる」っていう雰囲気があって、悔しい思いをしたことが結構ありました。だから、自分がアーティストになるときは、その中でいかに対等にやれるかということを、すごく考えていました。」


Q:絵をかいているとオリジナリティが欲しいと思いますが、こと人生の話になると、オリジナリティが強すぎると不安だなと思うことがあります。芸術家の道を選ぶ方々は、成功するまでの不安な気持ちや葛藤と、どのように向き合っていらっしゃるのでしょうか。

「僕も不安がなかったわけではないし、20代の頃は、このバイト生活はいつまで続くのかなって思っていました。でも同時に、これをやってみたいっていうことのほうが勝っていたように思います。僕の世代の当時は就職をするのが当たり前で、そういう人たちばっかりだったので、そこにはまりたくないという強い反抗心みたいなものはあったし、満員電車も嫌いで、無理だなと思っていたので、だからこそ、こっちでやろうとはっきり思っていましたね。」


Q美術で生活の目処が立ちそうだという想定があったわけではなく、思いつきで動いてきたことの方が多いですか?

「運がよかったと言うしかないし、今も、自分はそんなに有名なアーティストではないと思っています。僕は当初から、いわゆる有名な一流のアーティスト、トレードマークになるような表現を繰り返し展開するようなアーティストにはなりたくないなと思っていました。二流でもその分いつもクリエイティブなこと、新しいアイデアについて考え続けていたいと思っていたんです。そしてそれは今、達成できていると思うので、あんまり高望みをしていません。
みんなの、今くらいの年齢のときに「こうなりたい」と強く思ったことは、たぶん叶います。お金持ちになりたいならお金持ちになりたいって思っておいた方がいいと思う。小学生のときに「世界中に友達をつくりたい」と思っていたことも、まあまあ叶っているし。

あともうひとつは、僕、人の表現が好きなんですよ。学生と接していると、自分のことを聞いてもらいたい見てもらいたいって人はたくさんいるけど、人のことを見るのが好きな人って、意外に少ないと思いませんか?僕はたぶんアートがめっちゃくちゃ好きなんですよね。そして、ほんとにアートで生きていこうと思ってて、好きだから展覧会も日常的に見にいくんです。人と違うというのなら、そのあたりかなと思います。本当に自分にしか興味がなくて、自分の表現を狂ったようにやるのか、人の表現も好きで見ていくのか、どっちかなんだろうなって思いますけどね。
そういう意味じゃ僕なんて普通の人で、狂ったようにはできないから、アートが大好きでその延長でやってるって感じかな。それが大事なことだと思います。自分がやってるジャンルが大好きになることですね。」

 

トークのなかでは「たまたま」という言葉が多く聞かれたが、島袋の作品は、その偶然の出会いに大真面目に向き合ってみること、そして思いついたことを、まずやってみることから生まれていく。だからこそ見る人にも新しい出会いやこれまでにない発見、イメージを生み出すのだろう。島袋の柔らかでユーモラスな語り口の言葉からは、驚くほどまっすぐに世界を見つめる眼差しと、だからこそ美術を通して世界と出会い、向き合おうとする強い意志が感じられた。

Photo: Oto Hanada



ICA Kyoto TALK 060 「どうやってアーティストになったか」
⽇ 時: 2025年10⽉21⽇(火) 18:00-19:30
会 場: CAPS(Contemporary Art Practice Studio) 京都芸術大学NC棟6階
主 催: ICA京都、京都芸術⼤学⼤学院
協 力: 一般社団法人HAPS

ICA Kyoto TALKとは?
ICA京都は2020年に京都芸術大学大学院の附置機関として創設され、これまで国内外で活躍するアーティスト、キュレーター、研究者、ギャラリストなどを招いたトークイベントを継続的に行ってきました。その一環である「ICA Kyoto Talk」は、これまでの「Global Art Talk」と統合し、京都と世界各地の多様なアートシーンを結びつけ、対話を重ねるためのプラットフォームです。ローカルな現場とグローバルな動向とを往復しながら、複層的な世界を実感し、新たな視点を開く場となることを目指しています。



ゲストプロフィール

島袋道浩 SHIMABUKU
1969年、神戸市出身。現在は那覇市を拠点に世界各地で活動。1990年代初頭より国内外の多くの場所を旅し、その場所やそこに生きる人々の生活や文化に関係したサイトスペシフィックな作品や、新しいコミュニケーションのあり方に関する映像、彫刻、パフォーマンス、インスタレーションなど、さまざまな形態の作品を制作。詩情とユーモアに溢れながらもメタフォリカルに人々を触発するような作風は世界的な評価を得ている。近年はスペイン、サンタンデールのセントロ・ボティン美術館(2024年)、イタリア、ボルツァーノのムゼイオン美術館(2023年)、モナコの国立新美術館(2021年)などで個展を開催。パリのポンピドゥー・センターやロンドンのヘイワード・ギャラリーなどでのグループ展やヴェニス・ビエンナーレ(2003年、2017年)、サンパウロ・ビエンナーレ(2006年)、ハバナ・ビエンナーレ(2015年)、リヨン・ビエンナーレ(2017年)などの国際展にも多数参加。ドイツ、ブラウンシュワイグ芸術大学HBKの客員教授(2005-2006年)やチューリッヒ芸術大学ZHdkの 客員講師(2014-2015年)なども務める。

執筆者プロフィール

小山冴子(おやま・さえこ)
アーツカウンシル東京プログラムオフィサー。とんつーレコード主宰。2006年より福岡のオルタナティブスペース art space tetraの運営に携わり、展覧会や音楽イベントを多数企画。2012年以降は各地のアートプロジェクトや国際芸術祭の現場、アートセンター等にて作品制作のコーディネートや企画・キュレーションを手がける。各現場にて地域と関わりつつ、別府、鳥取、鹿児島、名古屋、札幌へと移動し、2022年4月より東京拠点、現職。現在は、都内各地で展開するアートプロジェクトの伴走支援を行うほか、人材育成や研究開発等の事業を担当している。